「英雄たちの選択 徹底シミュレーション 江戸城攻略〜由井正雪に勝機はあったか〜」

◆11月15日20時〜21時、NHKBSプレミアムで「英雄たちの選択 徹底シミュレーション 江戸城攻略〜由井正雪に勝機はあったか〜」放送予定。『磯田道史、小谷賢、門井慶喜の諸氏は、違う方法なら可能だったと主張。不可能とする千田嘉博氏と論戦を交わす』らしい。面白いテーマであり、その後の歴を大きく変える可能性がおもしろそうである。

◆今日・明日と販促キャンペーン実施する予定である。一日目の今日は疲れた。

朝鮮通信使と雨森芳洲

鎖国中に、江戸時代と日本と交流があった朝鮮通信使ユネスコの「世界の記憶」に登録された。室町時代に始まったが、豊臣秀吉朝鮮出兵で一時、中断されていた。徳川の時代になって宗氏の折衝もあり、再開され、1607年から1811年までのおよそ200年間に合わせて12回、朝鮮通信使が派遣されている。朝鮮からの一行は300人から500人。これに警備や道案内をする日本のお供が加わりますので、総勢1000人を超える大行列であった。一行は、ソウルを出発してまず陸路でプサンまで行き、そこから船で対馬に渡ります。下関から船で瀬戸内を進み、大阪、京都を経て、ようやく江戸に到着します。往復4,500キロ、8か月から1年かかったそうです。日本側は経路にあたる各藩がリレー形式で接待役を務めた。地元の名産品でもてなしたという記録が残されている。異国情緒たっぷりの壮大なパレードは当時の日本の人々にとっても一大イベントだったようであり、沿道には大勢の見物客が押し押せたというそうである。朝鮮通信使は外国との接触が限られていた当時の日本にとって、貴重な文化交流、情報交換の場でもった。朝鮮通信使の往来に重要な役割を果たしたひとりの日本人が雨森芳洲(あめのもり・ほうしゅう)という江戸時代の学者である。滋賀県長浜市(合併前は高月町)に生まれた芳洲は、江戸に出て新井白石らとともに儒学を学び、そして当時、朝鮮と江戸幕府との橋渡し役をしていた対馬藩に仕えた。彼は、相手の国を知るためにはその国の言葉に通じていなければならないと、プサンや長崎で朝鮮語と中国語を学びました。その語学力は、使節の高官も舌を巻くほどだったと伝えられている。対馬使節を受け入れただけでなく、朝鮮通信使に2度同行し親交を深めている。芳洲は、61歳の時に外交をする心構えについて一冊の本を著した。「互いに欺かず争わず、真実を以って交わる」まごころをもって接するという教えは「誠信の交わり」と呼ばれ、江戸時代、芳洲の死後も引き継がれていった。