浅草案内①

●浅草広小路 奥州街道分岐点
 江戸の火災を防ぐために各所に通りを広げた場所。火除け地。両国広小路、上野広小路。広場に芝居小屋、屋台、見世物小屋等人が集まり賑やかになる。
 奥州街道(おうしゅうかいどう)とは、江戸時代の五街道の一つ。江戸日本橋を起点として千住から白河へと至る街道である。下野国宇都宮宿以南の区間日光街道と共用されており、宇都宮宿伝馬町の追分で日光街道と分岐していた。
 ・「龍昇亭西むら」
安政元年、雷門の正面に創業した。味の良さでしのぎを削る浅草にあって、ひときわ有名なお店です。金龍山浅草寺の御供物などを引き受けていた関係からついた「龍昇亭」の屋号が、その歴史と伝統を物語ります。「西むらの菓子は機械でなく道具で作る」「季節を重んじ、季節を和菓子で表現する」それが、西むらの精神です。羊かんには蒸し羊かんと、寒天を使った練り羊かんがあるが、歴史は蒸し羊かんの方が古く、小麦粉と小豆餡を練り、羊の肝のような色になった時、これを蒸したものだった。これに栗を加えたのが栗むし羊かんだ。西むらは江戸末期に、雷門前の広小路に面した茶屋町お茶屋を始め、文政12年の歌川広重作『雷門前図』にもお店が描かれている老舗。「栗むし羊かん」はもちろん、「金龍(ももやま)」「東京かすてら」、「昇り鮎」など浅草の催事と季節にちなんだ品々が大人気。
 ・「神谷バー
 明治13年日本初のバー。浅草一丁目一番地。数々の文豪に愛された。電気がめずらしい明治の頃、目新しいものというと"電気○○○"などと呼ばれ、舶来のハイカラ品と人々の関心を集めていました。さらにデンキブランはたいそう強いお酒で、当時はアルコール45度。それがまた電気とイメージがダブって、この名がぴったりだったのです。デンキブランのブランはカクテルのベースになっているブランデーのブラン。そのほかジン、ワインキュラソー、薬草などがブレンドされています。しかしその分量だけは未だもって秘伝になっています。あたたかみのある琥珀色、ほんのりとした甘味が当時からたいへんな人気でした。ちなみに現在のデンキブランはアルコール30度、電氣ブラン<オールド>は40度です。大正時代は、浅草六区(ロック)で活動写真を見終わるとその興奮を胸に一杯十銭のデンキブランを一杯、二杯。それが庶民にとっては最高の楽しみでした。もちろん、今も神谷バーは下町の社交場。仕事帰りの人々が三々五々、なかには若い女性グループも、小さなグラス片手に笑い、喋り、一日の終わりを心ゆくまで楽しんでいます。時の流れを越えた、じつになごやかな光景です。明治・大正・昭和・平成、時代は移っても人の心に生き続けるデンキブラン
浅草と文学のつながりはひじょうに深く、浅草からは、じつに多くの名作が誕生しています。たとえば永井荷風は、小説「すみだ川」で下町情緒あふれる隅田川界隈を舞台に、美しくも哀しい人間模様を描き、その後昭和の初めには、川端康成が、浅草の最も華やかな時代を「浅草紅団」「浅草の姉妹」「浅草の九官鳥」など数編の小説に収めています。このほか石川啄木萩原朔太郎高見順谷崎潤一郎坂口安吾壇一雄…など、数多くの文学者たちが浅草に心惹かれ、何らかのかたちで浅草にその足跡を残しています。
・昭和三十五年芥川賞を得た三浦哲郎作「忍ぶ川」、このなかにも神谷バーデンキブランが登場します。「忍ぶ川」は青春小説として大きな感動を呼び、映画化もされました。「でもせっかくの休みだから、栃木へいってきた方がよくはないかな」栃木には志乃の父、弟妹たちがいるのである。「ええ。…・でも、せっかくの休みだから、ふだんできないことをしたいんです。やっぱし、浅草へいきたいわ」― 中略 ―「だけど、神谷バーってのはいまでもあるのかな」「ええ、あると思いますわ。いつか栃木へ帰るとき、ちらっとみたような気がするんですの。映画見て、神谷バーへいって、あたしはブドー酒、あなたは電気ブランで、きょうのあたしの手柄のために乾杯して下さいな。これは「忍ぶ川」の一場面。主人公と料亭「忍ぶ川」で働く志乃の会話です。共に不幸を背負う二人が胸をはずませて初めてのデートをします。もし、志乃の頬がバラ色に染まったとしたら、それは神谷バーのブドー酒のせいだけだったでしょうか。
1880年明治13年)4月初代神谷傅兵衛浅草区花川戸町四番地にて、「みかはや銘酒店」を開業。酒の一杯売りを始める。1881年明治14年)輸入葡萄酒を再生し販売を始める。1882年(明治15年)速成ブランデー(現在のデンキブラン)の製造販売を始める。.
1912年(明治45年)4月10日店舗の内部を西洋風に改造し屋号を「神谷バー」と改める。1921年(大正10年)神谷ビル(現在も使用している建物)落成。1949年(昭和24年)3月1日株式会社神谷酒場設立。)
・『スーパードライホール』(アサヒグループホールディングス)の屋上オブジェ
スーパードライホール屋上のオブジェは、1989年にアサヒビール創業100周年を記念してスーパードライホールと共に建設された。オブジェのデザインは、フランスのデザイナーのフィリップ・スタルク氏によるもの。「フラムドール」(フランス語で金の炎)と呼ばれております。アサヒビールの燃える心を象徴。オブジェが炎、そして下のスーパードライホールが聖火台をイメージして設計。
●浅草文化観光センター
 浅草文化観光センターは、浅草雷門前に位置する観光案内所です。4か国語(日本語、英語、中国語、韓国語)による観光案内を行っています。待ち合わせに利用すると良い。8階の展望テラスからは東京スカイツリーや浅草のまちを一望することができます。1階には外貨両替所、3階には旅行団体支援スペース、6階には多目的スペースがあり、通常イスが設置されており、休憩場所としてお弁当などの飲食可。校外学習での昼食場所利用などにも利用できる。
・「ちんや」
 江戸時代、弊店は諸大名や豪商に狆(ちん)などの愛玩動物を納め、獣医も兼ねていたところから「狆屋」と呼ばれておりました。明治13年に料理屋に転じましたが、「ちんや」をそのまま屋号といたしました。その後明治36年にすき焼の専門店になりました。
・「雷おこし」
 雷おこし(かみなりおこし、米をいったん蒸かし、その後煎って膨らませたものに水飴、砂糖、落花生などを混ぜて固めた和菓子である。もともとは唐菓子の一種として平安時代に日本に伝わり、日本各地に伝わり、江戸時代に駄菓子としてつくられるようになった。関東の雷おこしに対して、関西では岩おこし、栗おこし、愛知や九州にも米おこしにもおこしがある。
 雷おこしの老舗、常盤堂によると、雷おこしの名前の由来は、浅草寺の「雷門」の「雷」と「家を起こす」「名を起こす」の「おこす」をかけたもの。江戸時代後期の1795年(寛政7年)、焼失した雷門の再建を機に露天商が縁起物として売り始めたのが発祥と言われ、浅草名物の土産物として知られる。

貝原益軒誕生

◆心を平(たいらか)にして気を和(なごやか)にする。これ身を養い徳を養う工夫なり──寛永7年(1630)11月14日貝原益軒が生また。福岡藩祐筆の子として城内で誕生。教育、医学、本草などにも業績を残した。著書に『大疑録』『益軒十訓』『養生訓』『大和本草』など。