今日は飲みすぎました。

◆今日は職場の忘年会飲みすぎました感あり。

◆<今日12月20日が命日の江戸時代人>
伊達宗城(文政1.8.1(1818.9.1)〜明治25.12.20(1892) 幕末の宇和島藩(愛媛県)藩主。父は旗本山口相模守直勝。文政12(1829)年宇和島藩主伊達宗紀の養嗣子となる。字は子藩、号は南洲、藍山。弘化1(1844)年襲封すると藩政改革,特に富国強兵,殖産興業に力を注いだ。例えば嘉永1(1848)年には脱獄・逃走中の高野長英を来藩させ蘭学塾五岳堂を開設したほか,長州藩村田蔵六(大村益次郎)を招き軍事を研究させ、また高島流砲術を威遠流と称して鋳砲,砲台設置や軍事訓練を行った。さらに物産方設置と専売制強化、蒸気船による国産物の江戸直送の試み、長崎での貿易計画等々を行った。改革は成功し、幕末政局で大きな発言力を持った。当初、強硬な攘夷派であったが、のちにその姿勢を改めた。安政5(1858)年の将軍継嗣問題では徳川斉昭(娘賢姫は宗城と婚約中病死)、松平慶永らと共に一橋慶喜擁立派に加わった。その後、安政の大獄(1859)により引退し宗徳に家督を譲ったが、なお依然として政治的発言力を持ち続けた。文久年間(1861〜64)には島津久光に接近し、公武合体を推進する。8月18日の政変(1863)ののち参予会議の一員となり朝議に参加したが、同会議は実効性を発揮しないまま翌年解体してしまった。その後も宇和島に来訪した英国公使パークスに天皇中心の雄藩連合構想を語り、大政奉還の際にも公議政体派の土佐藩に同調したが、結局薩長討幕派に押し切られた。維新後は民部卿,大蔵卿などを務め、日清修好条規調印(1871)に当たったが,廃藩置県(1871)を機に第一線から斥けられ、修史館副総裁(1883)などを務めた。<著作>『伊達宗城在京日記』<参考文献>兵頭賢一『伊達宗城』(愛媛県先哲偉人叢書3巻),宇和島伊達文化保存会編『伊達家文書』