徳川秀忠。

<今日の江戸学トピック>
◆「およそ将たる者が、注意しておかねばならないことは3つある。第一には戦争、第二には災害、第三には火災。こうした不測の事態が万一起きた時にも、狼狽せず落ち着いて対処できるようにしておくべきである」
 これは、第2代将軍徳川秀忠。家康の跡を継ぎ、何事にも慎重な性格だったといわれる。戦争や災害など想定外の事態に陥っても、落ち着いて対処できるようにするのが、責任者の役目だという。秀忠は、普段から、万一目の前で刃物を振り回すような事態に陥ったら、小太刀や鉄扇による護身術などを師に聞いて、対応できるようにしていたという。
●第二代将軍秀忠(台徳院・徳川家康の三男)
 父:徳川家康 母:(側室)宝台院(西郷局) 正室:小姫・お江 側室:お静 在位:18年3ヶ月(1605〜23) 徳川宗家 享年:54歳 墓所:芝増上寺
 二代将軍秀忠は、天正7年(1579)家康の三男に浜松城で生まれる。幼名長松・竹千代。12歳の時豊臣秀吉より一字をもらい秀忠と名乗る。戦国武将は武勇に優れ、気骨ある性格をわが子に望むが、秀忠は幼少期からもの静かで父家康の教えに従順に従うものであった。「何事も大御所様の仰せのままに」で一貫して偉大な父を律儀に立て、その主体性のなさに泥人形と揶揄されることもあった。秀忠は関ヶ原の合戦で3万8千の大軍勢を率いて寄り道、2千人が籠城する上田城攻めで敗戦。中仙道で関ヶ原の戦いに向かうが間に合わず家康から激怒され、戦国武将としては影の薄い存在であった。慶長19年(1614)大阪冬の陣では、汚名返上とばかりに江戸から強行軍を続け、伏見城に着くと秀忠の軍勢は疲労困憊で戦どころではなかった。またもや家康の逆鱗に触れたのである。
 慶長10年(1605)4月に秀忠は征夷大将軍に就任、父家康は駿府で大御所として隠居する。秀忠は徳川家直轄地と譜代大名を統治し、駿府城の家康は外様大名の接渉を担当する二元政治体制をとった。しかし、秀忠は家康が亡くなると豹変、家康が存命時に構想していた改易転封による大名統制、キリスト教弾圧、貿易統制を強化するなど、幕府の地盤を固めた二代目としての功績は大きい。正室お江与の方は大変嫉妬深い性格で、恐妻家の秀忠は正式な側室を置かなかった。お江は念願の嫡男・竹千代(家光)、次男・国松(忠長)を授かる。だが、秀忠はお静の方との間に思いがけず男児・幸松(保科正之)を授かるが、お江の逆鱗に触れてはならぬと、認知せず密かに武田家の家臣筋である譜代大名・高遠藩保科正光の実子とした。親子の対面が叶ったのはお江与の死後である。秀忠には二代将軍の座を争った福井75万石を領する異母兄・結城秀康がいた。秀康の死去により嫡男忠直が跡を継いでいたが、江戸への参勤を怠るなど精神疾患が噂され、家臣団が恐慌状態になる所業を黙殺できず改易とした。この頃、家光に将軍職を譲るための上洛の日が迫っており、徳川家内部の不安を抱えた忠直の改易に踏み切ったのである。秀忠は元和9年(1623)家光に将軍職を譲るが、律儀に父家康に倣って大御所となり実権は手放さず、西ノ丸対本丸の二元政治を行った。寛永8年には溺愛していた次男忠長の領地を召し上げ蟄居を命じる。この頃から秀忠は体調を崩し伏せるようになり、翌寛永9年(1632)1月24日死去。享年54歳。