伊豆韮山代官・江川太郎左衛門英龍。奥医師(御典医)多紀家。そして舛添氏続投94%が反対、後任3番人気に嵐・櫻井翔の父、桜井俊氏。

<江戸学>
江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん)とは伊豆国田方郡韮山静岡県伊豆の国市韮山町)を本拠とした江戸幕府世襲代官である。太郎左衛門とは江川家の代々の当主の通称である。江川家は中世以来の名家であり、始祖が清和源氏源経基の孫・源頼親であることもはっきりしている。この頼親の血統は大和源氏と呼ばれ、初め宇野氏を名乗った。伊豆には平安末期に移住し、宇野治長が源頼朝の挙兵を助けた功で江川荘を安堵されたことにより、領域支配が確定した。その後鎌倉幕府後北条氏など、その時代の支配者に仕えた。江川家と改めたのは室町時代のようである。天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際には、江川家28代英長は寝返って徳川家康に従い、代官に任ぜられた。以降江川家は、享保8年(1723年)- 宝暦8年(1758年)の間を除き、明治維新まで相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の天領5万4千石分(後26万石に膨れ上がる)の代官として、民政に当たった。中でも36代の江川英龍が著名である。江川家は平安時代以来明治維新にいたるまで38代続いた家であり、代々が太郎左衛門を名乗った。江川英毅35代当主は、農地の改良・商品作物の栽培など天領の増収に尽くす。文化人としても名を残す。江川英龍36代当主(1801 - 1855。)号は坦庵。英毅の子。一般には江川太郎左衛門といえば彼を指すことが多い。洋学の導入に貢献し、民政・海防の整備に実績を挙げ、御台場や反射炉の築造など、数々の偉業で知られる幕末の伊豆韮山代官・江川坦庵こと太郎左衛門英龍は、日本で初めてパンを焼いた人物としても知られる。彼は、まさに多芸多才。見事な彫金を施した自作のキセル、庶民の生活を活写したスケッチ、漆塗りの文箱、写真の自ら鍛えた短刀など、その作品が多数現存している。
◆多紀氏は、江戸幕府に代々仕え、徳川将軍家奥医師御典医)として初代徳川家康から最後の将軍15代徳川慶喜まで将軍家に近習した。僧位を持ち、法眼、法印の位を授けられた。菩提寺は東京都北区上中里にある城官寺で、多紀一族の墓がある。江戸時代の末期には、江戸幕府の医学校である医学館総裁をつとめた。同家は江戸時代を通じて漢方医の最高権威。医学館を創設し、医学教育にも当たった。
 多紀氏は丹波康頼の後裔で、四代元燕までは兼康(後に金保)姓を名乗っていたが、五代元孝の時に多紀に改姓しており、この元孝が躋寿館(後の医学館)の創設者である。元孝(1695〜1766)は、金保家の養子となって幕府に仕え、奥医師に進んで法眼となった。寛延2年(1749)に家号を多紀と改称。明和2年(1765)に躋寿館を創設した。元徳(1732〜1801)は、元孝の五男で元簡の父。家督を嗣いで安永5年(1776)に奥医師となり、傍ら父の創建した躋寿館で教授。法印に叙せられている。元簡(1755〜1810)は、元徳の子で、医を父に、漢学を井上金峨に学ぶ。36歳で奥医師に列し、法眼に叙せられた。考証医学の学風を確立した多紀家の代表格で、門前の石標にある「多紀桂山」とは元簡のことである。元胤(1789〜1827)は、元簡の三男で、父に医学を、大田錦城に儒学を学ぶ。文化8年(1811)に家督を相続し、医学館督事となる。法眼に叙せられた。元堅(1795〜1857)は、元胤の弟であり、兄とは別に一家を興した。奥医師として法印に叙せられ、医学館の教授を兼ねた。元繒(1806〜1857)は元胤の長男で、父祖の学を受け、父の後を継いで侍医となり、法眼に叙せられた。元佶(1825〜1863)は、元胤の四男で、兄元繒の没後にその嗣子となって家督を嗣ぎ、法印に至って、医学督事を兼ねた。多紀元琰(1824〜1876)は、元堅の子で、家督を相続して奥医師に任命され、法眼を経て法印に進んだ。
 多紀氏は主に、内科を担当し、幕末に西洋医学が輸入されると外科の桂川氏とともに両雄と称されることがあるが、桂川氏は江戸時代後期に将軍家の奥医師になったのに対して、多紀氏は江戸幕府が開かれた時からの将軍家奥医師であり、多紀氏のほうが内科を担当しており家柄としても格上であり、位も上であった。

<今日のニュース>
◆都議会追及 きょうも続く “巨大パネル”“著書”で疑惑指摘
 午後1時から始まった都議会一般質問では、15人の都議が舛添知事に対義した。1人あたりの質問時間は10分程度だが、冒頭から「セコい言い訳」など、素質を問う厳しい批判が相次いだ。舛添知事からの「生まれ変わった気持ち」という発言に会場がざわめく場面があった。高倉良生都議は、舛添知事の著書「マスゾエ式 定年後 極楽生活入門」を用意し、資産運用として、絵画を購入するという記載を指摘。政治資金で大量の美術品を購入していた。専門家に購入していた絵画を見てもらうと「いいラインナップ。うまく安く買われている」と話す。指摘をする高倉良生都議は「政治団体を使った資産隠し」と声を大きくした。
 前日夜遅くまで質問を練っていた大島芳江都議は、具体的なポイントとしてパネルを使うと明かした。大島芳江都議は、会議費として計上していた、家族旅行の宿泊費について追及。会議として利用し、出版会社の社長を招いて相談したと説明している知事に対し、社長からのヒアリングもしておらず、実在するかどうかも疑わしいと発言した。そして、領収証のパネルを用いて、大島芳江都議は支出目的が記載されていないと、政治資金規正法に違反すると指摘した。番組スタッフが実際にホテルを利用してみると、明細も添付されていた。しかし、明細と領収証はミシン目で切り離せるようになっており、大島芳江都議はまぜ切り離してあるのかを追及。舛添知事は「明細書きがもともとなく、記憶にない」と回答した。その後も入れ替わり立ち替わり批判と追及が続き、舛添知事は落ち着かない様子を見せた。休憩中、傍聴していた東京都民のなかに、内田裕也さんの姿があった。話を聞くと「疲れているようだし、覇気もない。もう、辞めたほうがいいんじゃない」とコメントした。一方、質問を終えた大島芳江都議は「開き直りにも近い」と話した。
 休憩を2回挟んで続けられた一般質問。12番目に登場したのは、島田幸成議員。取り出した写真では、ワシントン訪問時にオープンカーに乗り、笑顔で手を振る写真だった。その頃日本では、熊本地震が発生しており、すぐに帰国するべきだったと指摘した。また、続けて島田幸成議員は、湯河原町合併60周年式典に公務で訪れていたことを挙げ、東京都市町村の周年行事には、出席していないことを指摘した。公用車で湯河原の別荘に通っていた問題では、多摩地区の都議からは2年前の選挙戦で多摩振興の意志を示したが、湯河原通いを指摘されると「奥多摩より近い」と豪語する始末で東京全体への目配り、愛情がないと指摘された。知事の資質や進退を問う指摘も相次いだ。都政の重要課題について、与野党すべてが知事の答弁を拒否し、都の担当幹部が質問に答えた。午後7時半まで続いた一般質問では、与党の都議からも進退を問う厳しい声が相次いだ。しかし、直接的な辞任要求の言葉は、与党からは出てこない。その理由は4年後に行われる東京オリンピックパラリンピック。今知事を辞職に追い込み、都知事選を行うと新しい都知事の人気は4年で、オリンピックの準備が佳境を迎えているところで、都知事選を行わなければならないという背景がある。次の焦点は一問一答形式で行われる総務委の集中審議で、明日開催が正式に決まる見通し。都民の信頼を取り戻したいと繰り返す舛添知事は、都議会に対し、自身の給与を減額する条例案を提出したいとしている。(2016年6月8日放送 23:01 - 23:15 日本テレビNEWS ZERO (ニュース)」)

◆怖い…大手町再開発も「将門の首塚」保存。
 大手町で2棟の高層ビル建設の起工式が行われた。ここは平将門の首が祭ってあるといわれている。たたりがおこるのではとの声もとびかっているようだ。以前この将門の首塚を壊して大蔵省の仮庁舎を建設したところ、大蔵大臣が就任3か月で休止、工事関係者も相次いで亡くなったようだ。工事関係者は今回建てるにあたって、毎日お参りしていると話している。

◆舛添氏続投94%が反対、後任3番人気に嵐・櫻井翔の父、桜井俊氏(スポーツ報知緊急アンケート)