新吉原誕生(再掲)。京都・綾部の黒谷和紙映像、全国一に。

<今日の江戸学トピック>
◆新吉原誕生
 明暦2年(1656)12月24日、日本橋葺屋町にある遊廓吉原の移転が決定。人口増加と風俗上の問題を考慮したことから。吉原は元和4年(1618)11月に誕生。ヨシが繁茂していたため「葦原」と呼ばれ、のち縁起の良い文字に変えて「吉原」と称するようになりました。幕府は江戸葺屋町一帯にあった吉原遊郭に、浅草の移転を命じた。移転先が江戸の町はずれ、浅草寺裏の日本堤で、経営側からの反対は強かったのですが、遊郭の土地を今までの1.5倍とする、夜の営業も認めるなど、幕府から提案、移転を了承しました。浅草は当時浅草田圃と言われるような寂しい場所。そのため幕府は、「遊郭の敷地を1.5倍にする、夜の営業も認める、移転料を1万5000両出す、江戸にある200数十軒の風呂屋をつぶす(湯女がいたため)という」条件を出した。この移転準備中に起こったのが明暦の大火で、葺屋町にあった吉原は全焼した。明暦3年8月その後新吉原に移転した。

●吉原の歴史
 1.吉原の誕生
 慶長10年(1605年)、江戸柳町で遊女屋を営んでいる庄司甚右衛門をはじめとする遊女屋稼業の者たちから遊郭設置願いが幕府に出された。江戸に散在する遊女屋を一ヶ所にまとめ営業したいというのである。しかし、この時の甚右衛門たちの願いは、時期尚早という理由で却下された。諦めない甚右衛門たちは、慶長17年(1612年)同様の願いを提出し、今度は幕府も願いを取り上げた。実際に営業が許可されたのは5年後の元和3年のことであった。
 このときの遊郭設置条件は、
  一.設置場所以外では遊女屋はいっさい認めない。
  一.客は一昼夜以上店にいてはならない。
  一.遊女は贅沢な着衣は用いないこと。
  一.遊郭は質素なたたずまいとし、町役は他の江戸の町と同様にすること。
  一.身元不審の者は奉行所へ通報すること。
の五箇条だった。幕府は設置場所として、日本橋葺屋町の北はずれにある二町四方の湿地帯を与えた。この湿地帯にはどこもかしこも葭が生えており、このままでは建物は建てられないほど地盤は軟弱であった。甚右衛門たちは早速地盤整地のための埋め立てを開始する。この工事は一年ほどかかり、どうにか元和4年(1618年)11月、置屋17軒、揚屋24軒で営業が始まった。この頃には「遊郭」という言葉はなく、単に「遊女町」「傾城町」と呼ばれていた。遊女を傾城と呼ぶのは、君主が色香に迷って城が傾いたという中国の故事から来ている(「漢書外戚伝」の逸話より)。埋め立て後、そこら辺一帯が葭の原だったことから、新たに「葭原(よしわら)」と名付けられた(アシは悪しに通するのでヨシとも発音した)。そして、さらに商売繁盛の縁起をかつぎ「吉原」となった。ここにいずれ日本最大の歓楽街へと変貌する吉原が誕生したのである。
 2.新吉原の誕生
 吉原の誕生した元和4年は豊臣氏滅亡の4年後で、新しい日本の中心都市・江戸へと人々は集中し始めていた。また、寛永16年(1635年)に発令された「武家諸法度」による参勤交代制度などにより、江戸の人口は膨張を加速していった。これらの人口を構成していたのはほとんどが男であり、必然的に吉原の商売は潤いをみせたのである。誕生当初の吉原は町人地から離れた辺鄙な場所だったのだが、江戸の人口が増加するにつれて周囲には町人が住みだし、次第に商業地、町人地の中心になってしまったのである。このため、幕府は吉原をさらに江戸の郊外へと移転させる計画を立てた。吉原のような悪所が江戸の顔のように繁栄しているのを快く思わなかったのである。それには、この頃の客の中心が武士だったこともある。明暦2年(1656年)10月、幕府から吉原に移転命令が下った。移転先は、浅草・浅草寺北の郊外にある日本堤という場所で、通称浅草田圃といわれたところである。
 郊外の人気のないところへの移転命令に対し、当然の如く吉原の遊女屋連中は反対した。これに対し、幕府側も心得たもので、この移転に対して破格の条件を出した。その条件とは、
  一.土地面積は今までの1.5倍与える(約2万坪)。
  一.移転料を1万5千両支給する。
  一.今まで昼間だけだった営業を夜も認める。
  一.江戸中の風呂屋にいる湯女と称する遊女の営業を一切禁止する。
  一.郊外へ移転するので町役である火消し作業を免除する。
という、かなり優遇されたものだった。
 明暦3年8月浅草田圃への吉原の移転が完了した。最初にできた吉原を「元吉原」、移転先の吉原を「新吉原」として区別するが、一般に「吉原」といった場合、新吉原をさしている。新吉原は以後300年、昭和33年(1958年)4月に施行された「売春禁止法」まで続き、地名は変わったものの現在も独自の風俗地区として存在している。ちなみに、「東京都台東区千束」というのが現在の地名である。
 新吉原完成から数ヶ月後、幕府は江戸中の風呂屋へ通達を出した。一切の遊女(湯女)をおいてはいけないというものである。職を失った湯女たち約600人全員が吉原送りとなった。幕府は移転に際する約束を守ったのである。こうして、規模が1.5倍になった吉原は遊女の数も元吉原時代の2倍になり、2,000人近くを数えた。吉原の案内書である「吉原細見」によれば、享保13年(1728年)の遊女の数は2,552人とあり、弘化3年(1846年)には7,197人とある。遊女の数は増え続けていったのである。さらには、吉原の移転に伴い客層にも変化がでた。元吉原時代は昼間のみの営業だったため、暇な武士階級が客の中心だったが、夜の営業が許可されたことにより、客層の主体が町人になっていったのである。
 「世の中は暮れて郭は昼になり」と川柳にあるとおり、吉原は江戸期を通して不夜城となったのである。

<今日の京都新聞
◆京都・綾部の黒谷和紙映像、全国一に 地元FM局が撮影
 京都府綾部市黒谷町の黒谷和紙協同組合が制作したプロモーション映像「府指定無形文化財黒谷和紙」が、全国地域映像コンクール(NPO法人地域文化アーカイブス主催)で、最高位のグランプリに輝いた。800年を超える歴史、日本一丈夫とされる和紙になるまでの膨大な工程、地域の思いを美しい映像にまとめている。映像は34分間。黒谷町は水が豊富で、かつては大半の世帯が和紙づくりで生計を立てていた歴史や、伝統を受け継ぐ職人の姿を追っている。コウゾの皮を煮て干し、冷水にさらす工程や、作業中に口ずさむ「紙漉(す)き歌」も紹介した。「黒谷和紙は風合いがあって丈夫で書きやすい」との書道家日本画家の話も添え、魅力を多角的にとらえた。映像は、黒谷和紙協同組合から依頼を受けたコミュニティーFMラジオ局「エフエムあやべ」(綾部市西町1丁目)が10カ月かけて2600カットを撮った。コンクールでは、伝統を継承する地域の人々の気持ちが強く込められていると高く評価され、全国26点の中から選ばれた。(http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20171223000075
◆まち華やぐ光の演出 京都府北部、各地彩るイルミネーション
 夜を彩るイルミネーションが府北部で行われている。学生や生徒の創意工夫にあふれていたり、住民が長年続けてきたり。24日はクリスマスイブ。光の演出で街はより華やぐ。 JR東舞鶴駅舞鶴市浜町)北口では、ツリーやボールの形に飾られた3万8千個の赤、青、白色の発光ダイオード(LED)電球がさまざまなパターンで点滅する。舞鶴工業高等専門学校の学生が2014年から手掛けている。近くの旅行会社の社員井上さくらさん(23)は「華やかで工夫されている。事務所から楽しんでいる」と感心する。翌15年にポリテクカレッジ京都が加わり、東、西舞鶴駅前を飾る。市のアンケートで満足度は6〜7割。土木課は「レベルは高く、今後も若い世代に取り組んでもらいたい」と期待する。福知山駅北口公園(福知山市駅前町)では市民憲章花時計のイルミネーションを府立工業高の生徒が15年から担当している、今年は21日で終了。隣のツリー形と合わせて約5千個のLED電球を使用。市は市内のイルミネーションやライトアップを紹介するマップを発行し、観光客にPRしている。(http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20171224000035
◆ライバルはひこにゃん 滋賀県の3キャラ、年賀状数競う印刷用画面を開く
 滋賀県のキャラクター「キャッフィー」「チャッフィー」「うぉーたん」の3体が2018年の年賀状を募っている。1月5日までに届いた人には3体の写真入り年賀状を返す。誕生19年を迎えるうぉーたんは「どんな年賀状が届くか楽しみ」と心待ちにする。年賀状の呼び掛けは、認知度向上を目指し今年の正月から始めた。うぉーたん、キャッフィーの2体に計4312枚が届いたが、彦根市の人気キャラクター「ひこにゃん」の1万4375枚に惨敗した。今回は9月にデビューした24年滋賀国体マスコット、チャッフィーを加えて3体で枚数を競い合う。送り先は〒520-8577 大津市京町4丁目、滋賀県庁の各キャラクター宛て。(http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20171224000105