天野屋利兵衛。二条城の二の丸御殿。狩野光信。

<今日の江戸学トピック>
享保12年(1727)1月27日、商人の天野屋利兵衛が亡くなりました。歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」十段目の主人公の天河屋義平のモデルとされる人物。赤穂浪士のために武器を調達。捕らえられて拷問をうけながら、白状しなかったといわれますが、実際の利兵衛は赤穂藩とは全く関係がなかったと言われている。
●天野屋利兵衛 (あまのやりへえ、寛文元年(1661年) - 享保18年8月6日(1733年9月13日))は、江戸時代の商人。名は直之(なおゆき)。利兵衛は、元禄時代熊本藩細川家と岡山藩池田家の大坂屋敷に出入りしていた大坂の商人であり、元禄3年(1690年)の『平野町宗旨改帳』によれば北組惣年寄となっている。また元禄7年(1694年)には天野屋の通しの称である九郎兵衛を襲名しており、これ以降は天野屋九郎兵衛になった。元禄8年(1695年)になると遠慮を申し渡されており、このときに惣年寄も解任されたようだ。のちに松永土斎と称した。
 赤穂事件やそれを題材にした『忠臣蔵』などにおいて、赤穂浪士の吉良邸討ち入りを支援をしたと知られているが、赤穂藩とは関係の無い人物である。しかし、赤穂浪士の吉良邸討ち入り後、かなり早い時点から赤穂義士を支援した義商として英雄化された。討ち入り直後に書かれた加賀藩前田家家臣杉本義隣の『赤穂鐘秀記』においても「大坂の商人天野屋次郎左衛門、赤穂義士たちのために槍20本つくったかどで捕縛され、討ち入り後に自白した」などと書かれている。赤穂浪士切腹から6年後の宝永6年(1709年)に津山藩小川忠右衛門によって書かれた『忠誠後鑑録或説』にも「大坂の惣年寄の天野屋理兵衛が槍数十本をつくって町奉行松野河内守助義により捕縛され使用目的を自白させるために拷問にかけられたが、答えずに討ち入りが成功した後にようやく自白した」などと書かれている。その後これを起源として各書に伝播していき、芝居『仮名手本忠臣蔵』の中にもこの話が採用されたため、定説化したと考えられる。なお、『仮名手本忠臣蔵』では、十段目に天河屋 義平(あまかわや ぎへえ)として登場する。武士でもない一商人が、役人の拷問に耐え忍びながらも一切口を割らず、「天河屋の義平は男でござるぞ、子にほだされ存ぜぬ事を存じたとは申さぬ」という科白を廻す場面で知られる。

◆文化7年(1810)1月27日、本草家の小野蘭山が亡くなった。82歳。京都出身。本草を松岡恕庵(じょあん)に学び、25歳の時、京都に私塾衆芳軒をひらきました。のち幕府の医官となり、70歳で江戸の医学館で教える傍ら、諸国の山野で植物採集を行ない、本草学を集大成。シーボルトは蘭山を「日本のリンネ」と呼んだそうである。

《今日の京都通》
●二条城の二の丸御殿において、狩野光信の作とされる襖絵があるのはどこか。
 ア、式台の間  イ、大広間  ウ、黒書院  エ、白書院
<解答>  ウ、黒書院  
<解説>  二条城の国宝二の丸御殿は、雁行形となっており、手前から遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院と続いている。このうち、狩野光信が描いたのは黒書院であり、この部屋は将軍が親藩など親しい大名と面会した内向きの部屋となっている。式台と大広間は光信の兄である狩野探幽が手掛けており、白書院は諸説あるが狩野長信または興以筆とされている。(2級)

<1月27日の歴史>
◆1945年B29爆撃機70機が白昼の東京銀座を集中爆撃。死者540人。1967年米英ソなど60か国以上が「宇宙条約」に署名。1971年葉山御用邸が放火により全焼。1973年パリで「ベトナム平和協定」が正式に調印。翌日停戦発効。1993年曙が外国人力士で初めて横綱に昇進。貴花田が最年少大関に昇進し貴ノ花を襲名。2008年大阪府知事選挙で橋下徹が当選。