明正天皇誕生、春日局

寛永6年(1629)11月8日、後水尾天皇が退位を表明。女一宮(7)に皇位を譲った。これに伴い女一宮は明正天皇となり、奈良時代以来の女帝が誕生しました。表向きは健康上の理由としていたが、紫衣事件に加え、将軍家光の乳母のお福の参内が引き金となったと言われている。この参内のとき、お福は家光の代理としてやってきて、春日局の称号を下賜された。

明正天皇とは
 第109代天皇。女帝。名は興子。父は後水尾天皇、母は二代将軍秀忠の娘東福門院和子。紫衣事件春日局天皇拝謁事件による後水尾天皇の譲位にともない、7才で即位。父が院政を行う。900年(称徳天皇以来859年ぶり)絶えていた女帝となる。後水尾天皇と秀忠五女の和子の間の一子、後水尾天皇は幕府の度重なる干渉と圧迫に憤慨し強行的に退位((後水尾天皇紫衣事件等幕府のやり方に嫌気がさし 譲位の内意をもらす、その説得のため福が派遣された。)し、奈良時代以来の女帝。後水尾上皇院政女性天皇は終生独身であるという不文律を利用して皇室から徳川の血を絶やすためだったといわれる。称徳天皇以来859年ぶりの女帝。在位14年で弟紹仁親王(後光明天皇)に譲位。譲位後は徳川幕府より毎年五千石の貢米が献上された。元禄9年(1696)崩御、74才。この後女帝は117代の後桜町天皇だけである。

【江戸期の天皇16人】後陽成⇒後水尾⇒明正⇒後光明⇒後西⇒霊元⇒東山⇒中御門⇒桜町⇒桃園⇒後桜町⇒後桃園⇒光格⇒仁孝⇒孝明⇒明治

春日局とは
晩年湯島に天沢寺(のち麟祥寺)を建立し余生を過ごす。(江戸城大奥の基礎を築く。)
明智光秀重臣の娘、福。稲葉正成の後妻となったのち、家光の乳母となる。家光を将軍後継ぎにするため家康に直訴するなど運動。世にこれを「春日の抜け参り。大奥の礎を築き、家光が将軍になった後は大奥の実権を握る。お江が没してのち大奥を統率し絶大な権勢。寛永6年(1629)後水尾天皇に拝謁し、春日局の称号と従三位の位を賜る。チェック!文京区春日は春日局が拝領した土地であることにちなむ町名。チェック!寛永9年(1632)再上洛の際に従二位・緋袴着用を許される。従二位は平時子北条政子と並ぶ位である。(肖像画は緋袴姿)チェック!ゆかりの寺、麟祥院(東京都文京区)。墓所があり、狩野探幽による肖像画を所蔵。