浅草案内③

●伝法院
 伝法院は浅草寺院号であったが、いつの間にか住職が居住する本坊の称号に用いられている。浅草寺の本坊。安永6年(1777)建築の客殿・玄関や明治4年(1871)築の大書院、浅草寺貫首(かんす)大僧正のお居間などがあり、「伝法院」はこれらの総称。もとは観音院、智楽院などと称したが、元禄(1688〜1704)以後この名が付けられた。 客殿に阿弥陀三尊をまつり、その左右に徳川歴代将軍のうち歴代11名の位牌及び浅草寺各世代住職の位牌を安置する。回向道場として追善法要や、伝教大師忌の「山家会(さんげえ)」・天台大師忌の「天台会」などの論義法要が行われ、当山の修行道場でもある。約3,700坪の庭園は、寛永年間(1624〜44)小堀遠州(こぼりえんしゅう)により作庭されたと伝えられる「廻遊式庭園」である。
・「伝法院通り」
① 地口行灯(じぐちあんどん)
地口とは江戸時代に流行したいわば洒落ことばです。ことわざや成り句・芝居のせりふなどをもじって洒落をつくったもので、それを行灯に書いて祭礼などに競って飾る。というのが江戸の風習のひとつでした。伝法院通りでは鎮護堂(おたぬきさん)のご縁日に飾られていたのが始まりで、今では12本の街路灯(24面)に年間を通してこの地口行灯を飾るようになりました。
② 鼠小僧 (ねずみこぞう)
江戸市中を騒がせる鼠小僧(十八世中村勘三郎メモリアル「平成中村座発祥の地」記念碑建立に合わせた「勘三郎バージョン」。)がある。浅草公会堂前にある呉服屋「今昔きもの胡蝶(古着屋)」の屋根に千両箱を抱えている。
③ 夜の江戸八人衆(シャッター絵に隠れる八人衆)
各店に描かれたシャッター絵の中に、江戸の有名人が八人隠されています。それぞれ
の店が商う品にまつわる有名人・浅草にまつわる有名人そして、芝居や言い伝えにまつわる有名人です。
・幡随院長兵衛
 花川戸に住む町奴(まちやっこ)の長兵衛は、名の売れたあばれ者でしたが、市中を我が物顔で無茶していた旗本連中を懲らしめ、一躍町の英雄に!しかしながら、彼等にだまし討ちにされ殺害されてしまったという浅草の有名人。墓所も区内の源空寺にあります。(*手打ちうどん「叶屋」シャッター絵)
土方歳三(ひじかた としぞう)
新撰組の副長であった土方は、大変お洒落なハンサムボーイであったようです。ハーフコートのような洋服を着て撮った写真は、非常に印象深いですね。近藤勇が処刑された後も、幕府軍の幹部として北へ転戦し、五稜郭で戦死しました。紳士服屋さんの店先に隠れていますよ。(*マルミ洋品店シャッター絵)
 ・出雲の阿国(おくに)
歌舞伎おどりの創始者である阿国は、もとは出雲大社の巫女であったともいわれています。京都の四条河原で、その踊りを披露し、絶大な人気を持ったようです。時は徳川家が江戸に幕府を開いた年、1603年、江戸の歴史と歌舞伎の歴史は同時にスタートした訳です。
(やまとみシャッター絵)
水戸黄門(徳川光國)
日本で最初にらーめんを食べたのは黄門様であるといわれています。黄門様は大日本史という歴史書の編纂をしていましたが、小石川の水戸藩邸では、よくスタッフの人たちに手づくりのうどんをごちそうしていたそうです。ある時、その中のひとり朱舜水(しゅしゅすい)という中国人の学者が日頃の返礼にと中国式の麺をつくり、黄門さまにごちそうした。という事から、初めてらーめんを食べた有名人になったという訳です。(ら麺亭シャッター絵)
・大久保彦左衛門
家康と共に数々の戦で活躍し、その後家光にご意見番として登用されました。河竹黙阿弥の歌舞伎で世に知られるようになってから、すっかり人気者に。映画や本では必ず眼鏡をかけ、たらいに乗って登城する姿が。(御家人)(セキネ時計店シャッター絵)
坂本龍馬
薩長同盟のたて役者。日本の新しい時代を見れずに暗殺されてしまいましたが、慶応3年長崎での写真が残っています。羽織・袴で椅子に座り、足には靴を。いかにも新しもの好きの龍馬らしい姿ですね。(みどりや靴店シャッター絵)
新門辰五郎
もとは浅草寺新門の門番であった辰五郎は、浅草十番組・を組の頭として活躍しました。その後、15代将軍慶喜公の側近警護を務め、各地を共に移り住んだようです。現在ではこの流れをくむ新門(第5区3番地組頭・杉林氏)が浅草寺の御用を努めています。(絆纒屋シャッター絵)
・弁天小僧
歌舞伎でお馴染み、白波五人男のひとり、弁天小僧といえば浜松屋の店先で片肌脱いで因縁をつける場面が思い出されます。今で言えば婦人服屋さんで万引きをしたように思わせて、因縁をつけるといったところでしょうか。(金の山羊シャッター絵)
④ 白波五人男(しらなみごにんおとこ)
⑤ スターの広場
東京都台東区にある芸能人の手形とサインを収めた浅草公会堂の前庭(玄関前)。
台東区が大衆芸能の振興に貢献した芸能人の功績をたたえ、その業績を後世に伝えるため1979年(昭和54年)に創設。
・大黒家(天ぷら)
●鎮護堂
通称「お狸(たぬき)さま」で親しまれる鎮護堂は、浅草寺内に住み着いた狸の乱行を鎮めるため、伝法院正面脇に同院の鎮守として「狸社」を祀ったことに始まると言われ、火防・盗難除けの守護神として信仰が篤い。明治16年(1883)浅草寺中興第17世貫首(かんす)唯我韶舜(ゆいがしょうしゅん)大僧正が、夢告により境内に棲む狸を「鎮護大使者」として、伝法院の守護にまつったもので、現在のお堂は、大正2年(1913)の建立。毎年3月17日・18日に行われる祭礼では「鎮護大使者御祭典」の幟が奉納され、神楽囃子が流れる中で「地口行灯(じぐちあんどん)」が並ぶ。また、昭和53年(1978)建立の水子地蔵尊では、毎月24日午前10時に水子供養法要が行われる。
・加頭地蔵尊
破損した頭部をつないであるため「加頭地蔵(かとうじぞう)」の名がある。「首がつながる」との俗信から、サラリーマンらの信奉も集める。造立年代は不明。

幇間
幇間(ほうかん)」とは、男芸者のことである。幇間有志によって、幇間物故者供養のため、昭和38年(1963)に建立された。表面に幇間(たいこもち)の由来と、碑には浅草生まれの小説家・劇作家・俳人である、久保田万太郎の「またの名の たぬきづか 春ふかきかな」の句、裏面に幇間一同の名を刻んでいる。幇間を「たぬき」と呼んだことからこの地に建てられた。幇間の由来について塚には、幇間とは幇助のことであり、豊臣秀吉の寵臣曽呂利新左衛門を祖とする。その働きは、弁舌縦横につかい、宴席を侍り、客の間を取り持ち、遊興を助け、結果として、愁いを慰撫し、滑稽の内に風刺を挟み、怒りを和らげるものであると記している。

●宝蔵門(仁王門)
 仁王門と浅草寺宝物の収蔵蔵を兼ねたもので、鉄筋コンクリート造り、外観は重曹の桜門で高さ21.7m、間口21,1m、奥行き8.2mである。仁王門は、『応永縁起』によると、安房平公雅(たいらのきんまさ)が武蔵守に補任された天慶5年(942)、その祈願成就の御礼として建立された。以来、数度の火災により炎上するも、その都度再建された。
 鎌倉時代から江戸初期にかけては、あまり変化はなかったが、その後、徳川家光により再度の寄進建立が行われ、本堂と仁王門が慶安2年(1649)12月23日落慶、元禄5年(1692)に京都の曼殊院門跡(まんしゅいんもんぜき)良尚法親王ご染筆の「浅草寺」の扁額がかけられた。その後、昭和20年(1945)3月10日の戦災に遭うまで平穏無事だった。昭和20年の戦火で焼失、現在の宝蔵門は昭和39年の大谷米太郎氏の寄進により竣工されたものである。現在の門は浅草寺の山門として、内部三層のうち上部二層に近代的防災設備を施した収蔵室を設け、浅草寺の什宝物収蔵の宝蔵門として大谷重工業・ホテルニューオータニ創始者大谷米太郎氏のご寄進により復興再建された。その収蔵庫 は昭和37年(1962)7月25日に什宝物を収納した。
門の両側に木造仁王像が安置されている。「五重塔」(家光により再建された五重塔は戦災で焼失)は、昭和44年にそれまであった場所とは反対側に再建された。
 宝蔵門裏にかけられている「大わらじ」は吽形の仁王尊の製作者である村岡久作氏の山形県村山市の奉賛会により奉納されている。浅草寺にはこんな大きなわらじをはく人がいるなら「この様な大きなわらじを履くものがこの寺を守っているのか」と驚いて魔が去っていくという、魔除けと健脚を願い「わらじ」に触れていく人が多い。(高さ 4.5m・幅 1.5m、重さ 500kg、藁 2,500kg使用)、阿形の仁王尊製作者は錦戸新観作。

浅草寺本堂 天台宗、坂東13番巡礼所、関東観音1番札所
浅草寺山号を金龍山といい、聖観世音菩薩を本尊とする聖観世音宗の総本山、東京都内で最古の寺院であるという。「浅草寺縁起」に依れば、浅草寺の起源は、漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)兄弟が投網の中に人型の像を見つけたことに端を発する。時は飛鳥時代推古天皇の御代36年のことという。西暦で言えば628年のことで、いわゆる「大化の改新」以前の出来事である。拾い上げた人型の像を土師中知(はじのなかとも)に見てもらったところ、その像は聖観世音菩薩像だった。土師中知は出家して僧となり、自らの屋敷を寺としてこの仏像を安置、供養したという。これが浅草寺の始まりである。この土師中知の名については他説もあり、浅草神社では土師真中知(はじのまなかち)としているようだ。土師中知(あるいは土師真中知)は郷の長、豪族で、今で言う「文化人」だったようだ。その17年後の大化元年(645年)、勝海上人が観音堂を建立、夢告により本尊の聖観世音菩薩像を秘仏と定めた。聖観世音菩薩像は一寸八分(約5cm)の黄金仏と伝えられているようだが、勝海上人が秘仏と定めて以来、現在に至るまで非公開であるために確かめようもない。それからさらに200年ほどを経た平安時代初期、比叡山延暦寺の慈覚大師が秘仏に模した「お前立ち」(秘仏の代わりの開帳仏として人々が拝むための観音像)を造ったのだという。このため、浅草寺では勝海上人を創設者の意味の「開基」と呼び、慈覚大師を中興開山と呼ぶ。
徳川家康が、秀吉から関八州が与えられ天正18年(1590)に入府。芝の増上寺菩提寺に、浅草寺江戸城鎮護の祈願寺に定めた。寺領500石、11万4千坪を寄進し、大寺院になった。以来、浅草寺は「浅草観音」、あるいは「浅草の観音様」として人々の信仰を集めてきた。観音霊場として参拝者を集めるだけでなく、江戸時代後半からは境内に芝居小屋が建つなどして庶民の娯楽の場として繁華な佇まいを見せていたようだ。戦後はやや寂れた時期もあったようだが、現在では東京を代表する観光地のひとつとして多くの観光客を集めている。年中行事も多く、2月に淡島堂で行われる針供養、5月に行われる浅草神社三社祭、7月の朝顔市やほおずき市、12月の羽子板市など、それぞれに多くの人出で賑わう。もちろん大晦日から正月にかけては初詣の人々で溢れることになる。
浅草寺本堂は観音堂とも呼ばれ、ご本尊が安置され、参拝の人々が絶えない。創建以来、本堂は幾たびかの焼失と再建とを繰り返したが、慶安2年(1649年)、徳川家光によって再建されたものが近世まで残り、明治期に「国宝」に指定されている。この国宝の浅草寺本堂は関東大震災でも倒壊を免れたという。しかし残念ながら昭和20年(1945年)3月の東京大空襲で焼失、現在のものは昭和33年(1958年)に再建されたものだ。鉄筋コンクリート造、間口は約35メートル、奥行き約33メートル、棟高は30メートルほどという堂々とした姿だ。外陣には川端龍子(かわばたりゅうし)の筆による「龍之図」、天井には堂本印象(どうもといんしょう)の筆になる「天人散華之図」がある。内陣中央の宮殿(くうでん)に秘仏本尊と「お前立ち」の観音像が安置されているが、もちろん秘仏本尊は公開されることはない。
  浅草寺本堂は2009年(平成21年)2月から2010年(平成22年)12月にかけて「平成本堂大営繕」と呼ばれる改修工事が行われた。1958年(昭和33年)に再建されて以来、約50年ぶりに屋根の葺き替えも行われた。屋根の葺き替えにはチタン成形瓦が使用されている。

五重塔
宝蔵門の西側には五重塔が建っている。最初のものはこれも天慶5年(942年)に平公雅(たいらのきんまさ)が建立したものという。これも焼失と再建とを繰り返した後に慶安2年(1649年)に再建され、江戸時代には増上寺寛永寺天王寺の塔と共に「江戸四塔」として親しまれていたという。浅草寺の「塔」の創建は平公雅(たいらのきんまさ)によると言われていますが、江戸時代の慶安元年(1648)に再建され、安藤広重歌川国芳の浮世絵に登場する浅草五重塔も明治期に国宝に指定されたが、やがて東京大空襲で焼失する。現在のものは昭和48年(1973年)に再建されたものである。以前は現在地とは異なり本堂の東南に位置していたが、再建時に本堂の西南側である現在地に移っている。塔は地上から50メートル超という高さ(塔部分だけでも48メートルほど)で境内でもひときわ目を引く。最上階にはスリランカのイスルムニヤ王立寺院から贈呈された仏舎利が納められている。

●二尊仏
 この観音(右)・勢至(左)二菩薩の金銅坐像は「二尊仏」(にそんぶつ)、一般には「濡れ仏」(ぬれぼとけ)の名で知られ、信仰されている。像の高さは、共に2.36mで、蓮台も含めて4.5mの像高を誇り、江戸初期を代表する優れた仏像である。
 江戸時代前期の貞享4年(1687)、現在の群馬県館林の高瀬善兵衛(たかせぜんべえ)が願主となって建立した。善兵衛は江戸日本橋の米問屋に奉公し、のちにその主家への報恩と菩提を弔う為に造立した。観音像は球種善三郎の菩提を弔うため、勢至像はその子次郎助の繁栄を祈るためと、蓮台台座銘に記されている。

●久米平内堂
 久米平内(くめのへいない)は江戸時代前期の人で、天和3年(1683)に没したといわれる。彼の生涯については諸説あるが、剣の道にすぐれ、多くの人を殺したので、その罪を償うために日ごろ修めていた「仁王座禅」の自分の姿を石に刻ませ、人通りの多い仁王門の近くに埋めて「踏みつけ」させたという。それが転じて「文付け」となり、のちには恋の仲立ち役の神さまとなって崇拝された。現在でも願いをこめる女性の姿を見かける。

・鳩ポッポの歌碑
本堂の西南側にひっそりと「鳩ポッポの歌碑」がある。東くめ作詞、滝廉太郎作曲の童謡「鳩ポッポ」の歌碑として昭和37年(1964年)に建てられたものだ。この「鳩ポッポ」の歌詞が浅草寺境内での鳩と子どもたちとの姿を描いたものらしいというので、浅草寺境内に歌碑が建てられたものらしい。ちなみにこの「鳩ポッポ」は、一般によく知られた文部省唱歌の「鳩」とは異なる楽曲なのだが、混同されることも少なくないようだ。
 この「鳩ポッポ」を作詞した東くめは日本初の口語歌詞の童謡を発表した童謡作詞家として知られている。東くめは明治10年(1877年)、新宮藩家老由比甚五郎の長女として和歌山県東牟婁郡新宮町(現在の新宮市)に生まれた。子どもの頃から音楽を志し、東京音楽学校に入学、明治30年(1897年)に卒業すると同時に東京府高等女学校の音楽教諭になった。明治32年(1899年)に東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)の教授だった東基吉と結婚、この頃から基吉の提案によって口語歌詞による童謡の作詞に取り組み始める。明治34年(1901年)、後輩だった滝廉太郎と組んで制作した日本初の口語歌詞童謡、「お正月」、「鳩ポッポ」、「雪(雪やこんこ)」を発表する。やがて大坂へ転居、昭和44年(1969年)に亡くなる直前まで、現役のピアノ教師として働いていたという。
 かつて浅草寺と言えば、参拝客が鳩に餌を与える様子がひとつの名物と言ってもよかった。この「鳩ポッポの歌碑」近くに「はと豆」売りの小屋があり、その前の広場で「はと豆」を与える参拝客に鳩の群れる姿が見られたものだ。浅草寺境内では大正時代頃から露天商が鳩の餌を売るようになり、参拝客がそれを買って鳩に与えていたという。餌があれば鳩は増える。一時期、浅草寺には約3000羽の鳩がいたという。やがて世相も変わり、糞などによる被害が取り沙汰されるようになる。付近住民からの苦情も無視できなくなり、台東区は平成15年(2003年)夏頃から「鳩の餌やり禁止」を呼びかけるようになった。その年の暮れには「はと豆」売りの小屋もついに撤去されたという。

●戦災銀杏
 浅草寺本堂東南に位置する公孫樹(いちょう)は、樹齢八百余年といわれ、源頼朝公(1147〜99)が浅草寺参拝の折、挿した枝から発芽したと伝えられる。昭和5年(1930)に当時の文部省より天然自然記念物に指定されたが、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲の折、焼夷弾(しょういだん)を浴びながらも、その猛火から鎮護堂を守ったと伝えられる推定樹齢400〜500年の公孫樹(いちょう)である。天然自然記念物の指定は取り消されたが、あの戦災をくぐり抜けた神木として、今も多くの人々に慕われている。今でも木には当時の焼け跡が残っている。炎を潜り抜けた銀杏はまた芽を吹き、罹災者に元気を与えてくれた。
 
浅草神社(三社権現)
浅草寺本堂の東側には浅草神社が建っている。浅草寺の起こりとなった聖観音像を発見した檜前浜成、竹成兄弟と土師中知(あるいは土師真中知)の三人を神として祀った三社権現社として建立された。建立の時期ははっきりとせず、土師中知(あるいは土師真中知)の子が夢告を受けて創建したとも伝えられているようだが、実際には平安末期から鎌倉期にかけての頃に彼らの末裔が建立したものだろうとの見解を浅草神社は示している。「三社さま」と通称され、のちに東照権現(家康)も祀られた。その由緒に於いて浅草寺と密接な繋がりのある神社だが、明治の神仏分離令によって浅草寺から分離、「三社明神社」、さらに「浅草神社」と改称され、現在も浅草神社浅草寺とは別の独立した宗教法人である。現在の社殿は慶安2年(1649年)、徳川家光によって建立されたもので、社殿は権現造りで、幸いにも関東大震災や戦災も免れ、現在までその姿を残している。昭和21年(1951年)には国の重要文化財に指定された貴重な文化遺産である。浅草神社はその由緒から今もなお「三社様」として親しまれている。毎年五月に行われる有名な「三社祭」はこの神社の例大祭である。神社神輿三体の宮だし、宮入と各町渡御などが行われる。

・新奥山
 江戸の昔、今の浅草寺本堂の西北一帯は、俗に「奥山」と呼ばれ、江戸随一の盛り場として大道芸人見世物小屋で大いに賑わう著名な場所であった。奥山の名の由来は記録にないが、おそらくその位置が本堂の奥にあることから名付けられたと考えられる。
 明治以後、その賑わいは浅草寺西側の浅草公園六区へと移り、六区は日本一の興行街・映画のメッカとして栄えたが、その前身が奥山だったといわれる。現在は「新奥山」として整備され、諸碑が建立されている。この中には、往時の浅草の賑わいを伝える記念碑も建てられている。

・力石
 力石(ちからいし)と読み、「さし石」とも呼ばれる。江戸時代後期、酒屋・米屋の人足たちの間で、酒樽や米俵を曲芸のように持ち上げて、その力を競うことが流行した。ここにある力石は、境内で行われた「力くらべ大会」で競い持ち上げられたものである。
 「力石・熊遊(くまゆう)の碑」は、明治7年(1874)、熊次郎という男が持ち上げた百貫(約375キロ)ほどの力石であり、新門辰五郎(しんもんたつごろう)らがその記念として建てた。

瓜生岩子
 瓜生岩子(うりゅういわこ。1829〜97)は福島県会津に生まれ、その半生を社会福祉事業にささげた。児童教育や女性・貧民救済などの社会福祉事業の推進に努め、晩年の明治29年(1896)には、藍綬褒章を女性としては初めて受賞している。
 この像は、岩子の善行をたたえ、実業家の渋沢栄一(1840〜1931)らの助力のもと、明治34年(1901)に完成した。教育家として女性の地位向上に尽力した下田歌子(1854〜1936)の撰文が台座に刻まれている。

・「暫」像
 この像は、「劇聖」と賞賛された明治時代の歌舞伎役者、九代目市川団十郎(1838〜1903)の十八番「暫(しばらく)」の銅像である。現在の像は、十二代目市川団十郎(1946〜2013)襲名を機に復元されたものである。歌舞伎愛好者のみならず、多くのご信徒に親しまれている。

●被官稲荷神社
 安政元年、新門辰五郎の妻が重病で床に伏したとき、山城(現、京都府南部)の伏見稲荷神社に祈願したところ、その効果あって病気は全快しました。そして、同二年、町の人がお礼の意味も込め、伏見稲荷神社から祭神御分身を当地に勧請しました。その後、小社を創建し、被官稲荷神社と名付けられ、現在浅草神社末社としてその境内に祀られています。名称の由来は不明ですが、被官とは官を被(こうむ)る、ということから、就職・出世と解せばよいでしょう。被官稲荷神社正面の鳥居は新門辰五郎により奉納された。
例大祭は毎年3月18日に行われている。このお社は安政二年に創建されたもので、一間社流造といわれております。社殿は杉皮葺で、創建以来のものであり間口1.5メートル、奥行約1.4メートルと小さいが、覆屋を構えて保護しています。覆屋は大正期の建築物でしょう。また、社殿は先の関東大震災東京大空襲にも奇跡的に焼け残った大変貴重な建築物です。

●二天門
二天門は、浅草寺の寺門ではなく、今はない浅草東照宮随身門であった。本堂の東側、浅草神社の鳥居に向って右手に建つ。重要文化財指定。本瓦葺、切妻造り、木造朱塗り八脚門に、明治初年、神仏分離令によって、随身像は増長天(左)・持国天(右)に変わり、二天門と改称した。「二天門」の扁額は最後の太政大臣三条実美(さんじょうさねとみ 1837〜91)筆。
 元和4年(1618)浅草寺境内に造営された「東照宮」の「随身門(ずいじんもん)」として建立された。豊岩間戸命(とよいわまどのみこと)・櫛岩間戸命(くしいわまどのみこと)の二神をまつり、俗に「矢大神門(やだいじんもん)」ともいわれた。
  寛永19年(1642)東照宮は焼失し、その後の再建は許されずに「石橋(しゃっきょう)」(影向堂前)とこの門だけが残った。
  明治時代の神仏分離の際、二神を廃し、鎌倉鶴岡八幡宮の経蔵にあった二天を奉安して「二天門」と改称したが、両像は戦時中、修理先で焼失。現在の二天像は、上野・寛永寺の巌有院(第4代将軍徳川家綱)霊廟(れいびょう)より拝領したもの。
  現在の門は、その形式と技法より、慶安2年(1649)頃に建立されたと言われる。  創建以来、補修・改築が加えられていたが、平成22年(2010)の落慶にあたって創建当初の形式に戻された。元和4年(1618)に建立、当初は境内にあった東照宮随身門であった(建立年月については諸説あり)。同じく元和4年(1618)に造営された「東照宮」は寛永8年(1631)と同19年(1642)の二度の炎上後、江戸城内紅葉山に遷座された。現在の門は、その形式と技法より、慶安2年(1649)頃に建立されたと言われる。
様式は本瓦葺、切妻造り木造朱塗り八脚門である。二天像は、増長天(左)・持国天(右)(慶安時代作・都重宝)である。持国天増長天は、四天王に数えられる仏さまである。四天王は仏教の守護神であることから武装した姿に造られる。増長天は南方、持国天は東方を守護するとされ、仏舎利を収める仏塔やお釈迦さまの周囲に安置される例が多い。向かって左の増長天は、右手に法具を掲げ、左手は腰にあてる。右の持国天は、増長天は対称的な姿勢を取り、左手を上げて密教法具を持ち、右手を腰にあてる姿勢を取る。元来は全身に華やかな彩色が施されており、今でも顔や鎧(よろい)に古来の鮮やかさが残されている。どちらも「寄木造(よせぎづくり)」という、鎌倉時代以降に流行した複数の木材を組み合わせる技術で造られている。

・「旧五重塔跡」
 現在、五重塔は境内の西側に建立されているが、かつてはその反対側に位置していた。現在は、「旧五重塔跡」と記された石碑が跡地に建っている。10センチ程度の石ですが、境内に小さくその面影を残している。(浅草寺東側交番付近・宝蔵門右)
 浅草寺五重塔は、天慶5年(942)平公雅(たいらのきんまさ)による創建以後、いく度か炎上するもその都度再建されている。昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により惜しくも焼失した国宝旧五重塔(高さ33メートル)は、江戸時代の慶安元年(1648)、第三代将軍徳川家光(1604〜51)により建立され、かつては歌川広重(うたがわひろしげ)・歌川国芳(くによし)などの浮世絵の格好の画題としても全国に知られていた。
・まさる(天ぷら)
・黒田屋本店
雷門の右真横にある、和紙を使った商品を扱っているお店。場所柄、外国人客も多く、版画や張り子人形などを取扱っております。