知恩院

◆年末へのカウントダウンですね。今日あたりから、海外旅行やスキー旅行に出かける方もいるでしょう。帰省される方もいるでしょう。日本民族の移動の始まりでしょうか。でも、今年の年末年始は天気が悪いみたいですね。

知恩院
 知恩院(ちおんいん)は、京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。山号華頂山(かちょうざん)。詳名は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)。本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来阿弥陀堂)、開基(創立者)は法然である。浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。
 現存の三門、本堂(御影堂)をはじめとする壮大な伽藍が建設されるのは江戸時代に入ってからのことである。浄土宗徒であった徳川家康は慶長13年(1608年)から知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行った。造営は江戸幕府2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、現存の三門は元和7年(1621年)に建設された。寛永10年(1633年)の火災で、三門、経蔵、勢至堂を残しほぼ全焼するが、3代将軍徳川家光のもとでただちに再建が進められ、寛永18年(1641年)までにほぼ完成している。徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、徳川家が浄土宗徒であることや知恩院25世超誉存牛(ちょうよぞんぎゅう)が松平氏第5代松平長親の弟であること、二条城とともに京都における徳川家の拠点とすること、徳川家の威勢を誇示し、京都御所を見下ろし朝廷を牽制することといった、政治的な背景もあったと言われている。江戸時代の代々の門主は皇族から任命されたが、さらにその皇子は徳川将軍家の猶子となった。

<今日の京都新聞
◆「新年控え法然像きれいに 京都・知恩院で御身拭式」
 年越しを控え、京都市東山区知恩院(浄土宗総本山)で25日、宗祖法然の木像を拭い清める「御身拭式」が営まれた。像に息が掛からないよう口元を覆う「覆子(ぶくす)」を着けた僧侶らが丁寧に木像を拭いた。木像を安置する「法然上人御堂(みどう)」では、木魚をたたく音と念仏を唱和する声が響く中、僧侶4人がゆっくりと奥の宮殿(くうでん)前に進んだ。息を合わせて宮殿の扉を開くと、内部に安置された法然像を堂内中央部に下ろした。その後、朱色の衣をまとった菅原達孝副門跡らが、香で清めた羽二重の絹布で法然像の顔や腕をゆっくりと拭った。像を宮殿内に戻した後、僧侶が鏡餅を供え、迎春準備を整えた。堂内には約800人の参拝者が集まり、念仏を唱えながら僧侶たちの動きに見入っていた。