今日からまた仕事ですね。

◆今月もすでに半ば。今年度も2か月半余りで終わる。少し仕事のペースを上げて三月を迎えよう。

◆『メモの魔力』(前田裕二著)について
 起業家は、メモやノートに凝る人が多い。それはおそらく、メモやノートは、事業創出や新サービスの開発につながることが多いからでしょう。彼らは、ファミレスの紙ナプキンでも何でも、手元に紙があればすぐメモにとり、そこからアイデアを発展させて、事業に結びつけるらしい。今日の一冊は、外資投資銀行DeNAを経て、仮想ライブ空間「SHOWROOM」を立ち上げた起業家、前田裕二さんによるメモマニュアル。
 ノートを見開きで使って、左ページに「ファクト」、右ページ左に「抽象化」した内容、右ページ右に「転用」のアイデアを書くことで、見聞きしたファクトを、事業アイデアにまで展開してしまうノウハウが、現物のメモと共に紹介されている。まさに、フレームワークによりアイデアを生み出す。
〇ポイント
 (1)インプットした「ファクト」をもとに、
(2)気づきを応用可能な粒度に「抽象化」し、
(3)自らのアクションに「転用」する
SHOWROOM」を生み出したメモの例
○ファクト
・カバー曲を歌うと、オリジナル曲のときよりも立ち止まってもらえる
・立ち止まってもらった人のリクエストに応えると、ぐっと仲良くなる
・そうして仲良くなったあとにオリジナル曲を歌うと、もっとお金がもらえる
●抽象化
・仲良くなるには、双方向性が大事
・人は「うまい歌」ではなく、「絆」にお金を払う
★転用
・双方向性があり、絆が生まれる仕組みをネット上に作る
※それによって、アーティストが自分の力で(リアルよりも効率的に)ファンを増やし、お金を稼ぐことができるようになる
 メモの本質は「振り返り」にあります。振り返ったときに、そこから抽出できる学びの要素が実は信じられないほどたくさんある。「ファクト」を「抽象化」して、それをどういう風に自分に「転用」してアクションするのか? そこまで導き出して初めて、メモとしての意味が出てくる。
言語化がうまい人の2つの特徴
・抽象化能力が高いこと。その中でもとりわけ、アナロジー力が高い。アナロジーとは、一見無関係なものの間に何らかの共通点を見つけて、結びつける思考法です
・抽象的な概念に名前をつける力が高いこと。まだ呼び名が決まっていないものに標語をつける、キーワードをつける力です
◆<「記録」ではなく「知的生産」のためにメモをとる>
<「では具体的に何をするか」まで書かなければ人生は変わらない>
・「ファクト→抽象化→転用」という最強のフレームワーク
前田裕二氏の「メモ術」はもっと具体的で実践的と書きましたが「ファクト(事実)→抽象化→転用」という枠組みを最強のフレームワークと称していて、前田氏は、メモを取ることで、常にこのフレームワークを意識しているとのこと。さらに、日常を全てアイデアに変えるつもりでメモを取っているそうだ。
(『メモの魔力』より引用)
 「というように、メモから実践(転用)に落とし込む、例えば、前田氏がやられているサービスでは、その気づき(事実)から抽象化して、サービスに生かした手法などを、詳しく触れられています。これらの流れを、書籍に書かれた事例からざっくり転用すると・・・ある打ち合わせで、大阪・東京で宣伝用のチラシを配布した。普通にチラシを配っても、通行人に何らかメリットがないと受け取られない。大阪のおばちゃんは、何でもない時によくアメをくれる。大阪では、アメと一緒にチラシを配るとたくさん受け取られた。東京で同じようにチラシを配ったが、大阪の方が東京の3倍チラシがはける。」という話を打ち合わせ聞き(ここまでがファクト。上記を、抽象化→転用でさらに思考を深める。これらの現象を抽象化すると、大阪の方は、直接的で目に見えるメリット訴求に弱いという一つの気づきを得た。さらに、東京で同じようにチラシを配ったが、大阪の方が東京の3倍チラシがはけた、という事実(ファクト)を考えると、これが他の分野に応用可能性が高い概念と捉え、これらの事実を抽象化し、SHOWROOMにて大阪対象の施策を考えて転用させたこと、などが詳しく書かれている。
メモの効用
1.知的生産性・・・ これについて前田社長は「アイデアが出やすくなる」と仰っている。 事実をメモにとるだけでなく、自分の意見、考え、疑問点なども書き込んでいくと、このメモをとるということ自体が知的生産に繋がります。それを何度も繰り返すことになるメモは、練習でありながら実践的なアイデア出しの場になる。
2.情報獲得の伝達率・・・メモをしっかりと取ろうとしても、全ての情報を書き込むわけにはいきかない。前田社長は「聞いたことを全て書きとる」とまで言っているが、なかなかそんなテープ起こしのようなマネはできない。でも、そのつもりで聞いていると、必然的にメモをまとめる力がついてくる。
3.傾聴能力・・・「全て書きとる」つもりで聞くということを実践していくと、これまた必然的に、傾聴能力が向上する。ちゃんと聞いていなければ、メモとして書き残すこともできない。アンテナをしっかり張り巡らして、「ひとつでも多くのことを聞きたい!」という前のめりな姿勢になることが大事。また、話の中のどこが重要なポイントで、より深く聞いておかなければならないのか。これを見抜く能力も向上する。傾聴とは、ただ正確に聞き取るというだけではない。
4.構造化能力・・・メモをただダラダラと書いていると、後から読んでも何のことだったか、どういう順番のメモだったか、わからなくなる。ですから、しっかりとフレームワークを作って、順序立てて、メモを構造化する必要がある。とっちらかった情報はまとまりとして意味を成さず、単発のメモでは、あとから参照することができない。上手なメモの取り方を意識していると、構造化能力が向上していく。
5.言語化能力・・・聞いたことを一字一句違わずメモ書き写す、というわけにはいかない。メモは話を要約したり、自分の頭の中のもやもやした何かをしっかりと捉えて、言語化しなければならない。もやもやが晴れないままのメモは、後から自分が見ても、なんのことかもはやわかりません。疑問をもったということは、一段階深掘りしたとこうこと。それがなんだったのかわからなくなってしまっては、そのミーティングや講演で得ることができたものの一つを、取りこぼしたということですから。言語化能力はメモに必須の能力であり、尚且つメモをとっていく中で鍛えられていく。
 メモを習慣化していくことで、自然と書くスキルが身につく。これがまさに、これもメモの魔力である。
フレームワークによりアイデアを生み出す
ノートに罫線を引き、「ファクト ⇒ 抽象化 ⇒ 転用」という順番でメモを書き進めていく、前田流メモは備忘録にあらず。前田社長のメモは、一旦は備忘録としてとったものであっても、この罫線で分割されたノートの中で、しっかりと揉まれていきます。何度も言いますが、ここが『メモの魔力』最大のポイント。事実として書かれたメモを抽象化、一般化し、自分の事業や身の回りのものに転用できるアイデアとして具体化する
・ファクトを抽象化する
 まずは実際に目の前で起きたこと、聞いたことをメモにとります。これ自体は事実であり、個別具体的な事象ですから、「あぁそうだね」という感じ。これを抽象化してあげることで、事業や身の回りのものに転用することができるようになる。「What」「How」「Why」抽象化には三類型あり、それぞれの問いかけにより抽象化します。それぞれ得られる考課は異なる。「How」が抽象化としては最も効果的とのこと。どのように?ということですから、たしかに転用のイメージ。「Why」はトヨタ生産方式のなぜなぜ分析にも通じるもの。ビジネスマンであれば、とにかくあらゆる商品、サービスにWhy?なぜ?を向けてみてください。「What」は、抽象化の度合いはあまり高くないですが、上に挙げた「言語化」という意味では非常に重要です。それがなんであるかを抽象化してつかみ取ると、メモをとる力も向上する。
・抽象化ゲーム
 この抽象化というもの、意外と誰しも日常的にやっています。「Aって、Bだよね」という比喩がそれです。これは、抽象化したのちに別の物事組み合わせるものです。アナロジーとも言う。この「アナロジー」という言葉がでてきて、このアナロジー思考が、抽象化能力を鍛えるのに最適な思考法なんです。そこで、前田社長が編み出したのが「抽象化ゲーム」。ゲームというとなんでも面白そうに思えるのでいいですよね。ルールは簡単、「Aって、Bだよね」ということをみんなで考えるんです。このAとBは何でもよくて、目に入ったものを適当に選ぶんだとか。でも、Aはできるだけ汎用性の高いものにしておかないと、この「A=B」という命題を解くことは難解になってしう。みんなでワイワイと、抽象化して、共通点を探っていく。その過程で、楽しみながら抽象化能力を鍛えているんだそうです。「エンタメとはハイボールである」なんて、ちょっとふざけているようで、それでも共通点を見つければ、妙に納得して面白そうですよね。最近はゲーミフィケーションなんていうものが流行っています。仕事でもチーム内で目標を設定して競い合ったり、ゲーム性を取り入れて、楽しみながら仕事を進める取り組みがあります。この「抽象化ゲーム」もそういったものの一つですね。
・夢をかなえるメモの魔力
 こうしてメモにとってファクトを抽象化し、転用していくことで、身の回りで起こったこと、思ったことがどんどん自分の人生に反映されていきます。夢をかなえるということは、小さなことの積み重ねです。日々メモをためていき、フレームワークでアウトプットに繋げていくことで、ひとつひとつ、着実に、夢に結び付いていくのだと感じた。イチローの言った言葉に、こんな言葉がある。「小さいことを重ねることが、とんでもないところに行くただ一つの方法だ」

(1月15日生まれの偉人)
◆松平 定信(まつだいら さだのぶ、宝暦8年12月27日(1759年1月15日)ー文政12年5月13日(1829年6月14日))は、江戸時代の大名、老中。陸奥白河藩第3代藩主。定綱系久松松平家第9代当主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。
 幼少期より聡明で知られており、田安家を継いだ兄・治察が病弱かつ凡庸だったため、一時期は田安家の後継者、そしていずれは第10代将軍・徳川家治の後継と目されていたとされる。しかし、田沼意次による政治が行われていた当時から、田沼政治を「賄賂政治」として批判したため存在を疎まれており、意次の権勢を恐れた一橋徳川家当主・治済によって、安永3年(1774年)に久松松平家の庶流で陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子とされてしまった。
 藩主に就任したのは、天明の大飢饉の最中である天明3年(1783年)であるが、それ以前から養父・定邦に代わって藩政を代行していたと言われている。定信は天明の大飢饉で苦しむ領民を救うため、自らが率先して倹約に努め、さらに領民に対する食料救済措置を迅速に行なったため、白河藩内で天明の大飢饉による餓死者は出なかったと言われている。特に東北地方における被害が大きかった天明の大飢饉で、これは異例のことと言ってもよい。これは、近隣の会津藩の江戸廻米を買い取る、西国より食糧を買い入れるなど迅速な対応によるものだった。教育においては藩士の子弟のための藩校立教館と共に、庶民のための郷校敷教舎も設置し、民衆に学問への道を開いてもいる。
 天明の大飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、天明6年(1786年)に家治が死去して家斉の代となり、田沼意次が失脚した後の天明7年(1787年)、徳川御三家の推挙を受けて、少年期の第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となる。そして天明の打ちこわしを期に、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指した。
田沼意次重商主義政策と役人と商人による利権賄賂政治から、朱子学に基づいた重農主義による飢饉対策や、厳しい倹約政策、役人の賄賂人事の廃止、旗本への文武奨励などで一応の成果をあげた。老中就任当初から大田南畝により「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」などと揶揄された。海国兵談を著して国防の危機を説いた林子平らを処士横断の禁で処罰したり、田沼政権の北海道開拓政策を放棄したり、寛政異学の禁で朱子学だけを正統とし、幕府の学問所である昌平坂学問所では朱子学以外の講義を禁じ、蘭学を排除するなど、結果として幕府の海外に対する備えを怠らせた。

<今日の江戸学>
文久2年(1862)1月15日、老中安藤信正(磐城平藩)が登場途中、坂下門外で尊攘派の水戸浪士ら6人に襲われ負傷。坂下門外の変が起きた。桜田門外の変大老井伊直弼が暗殺された後、老中久世広周と共に幕閣を主導した信正は、直弼の開国路線を継承し、幕威を取り戻すため公武合体を推進した。この政策に基づき、幕府は和宮降嫁を決定したが、尊王攘夷派志士らはこれに反発、信正らに対し憤激した。一人の浪士が駕籠をめがけてピストルを発射しましたが、2年前の桜田門外の変以降、警護が厳重となっていて、大事には至らなかったそう。将軍家茂と孝明天皇の妹和宮を結婚させ公武合体をすすめる信正に反対の尊皇派によるものでした。
坂下門外の変とは
1.文久2 老中が坂下門外で襲われました 誰でしょう・・・安藤信正
2.襲ったのは誰・・・水戸浪士6名
3.老中は 井伊直弼亡き後、公武合体に力を注いできました。「和宮の降嫁」を進めてきたが、坂下門外の変により、老中を退任した。
4.この老中はどこの藩主ですか・・・磐城平藩(5万石)
5.この老中とともに 公武合体を推し進めた老中は・・・久世広周
 坂下門外の変(さかしたもんがいのへん)は、文久2年1月15日(1862年2月13日)に、江戸城坂下門外にて、尊攘派の水戸浪士6人が老中安藤信正(磐城平藩)を襲撃し、負傷させた事件。桜田門外の変大老井伊直弼が暗殺された後、老中久世広周と共に幕閣を主導した信正は、直弼の開国路線を継承し、幕威を取り戻すため公武合体を推進した。この政策に基づき、幕府は和宮降嫁を決定したが、尊王攘夷派志士らはこれに反発、信正らに対し憤激した。万延元年(1860年)7月、水戸藩の西丸帯刀・野村彝之介・住谷寅之介らと、長州藩桂小五郎松島剛蔵らは連帯して行動することを約し(丙辰丸の盟約・成破盟約・水長の盟約)、これに基づき信正暗殺や横浜での外国人襲撃が計画された。しかし、長州藩内では長井雅楽公武合体論が藩の主流を占めるようになり、藩士の参加が困難となった。長州側は計画の延期を提案したが、機を逸することを恐れた水戸側は長州の後援なしに実行することとした。文久2年(1862年)1月15日午前8時頃、信正老中の行列が登城するため藩邸を出て坂下門外に差しかかると、水戸藩浪士・平山兵介、小田彦三郎、黒沢五郎、高畑総次郎、下野の医師・河野顕三、越後の医師・河本杜太郎の6人が行列を襲撃した。信正は背中に軽傷を負って一人城内に逃げ込んだ。桜田門外の変以降、老中はもとより登城の際の大名の警備は軒並み厳重になっており、当日も供回りが50人以上いたため、浪士ら6人は暗殺の目的を遂げることなく、いずれも闘死した。

<今日の京都学>
◆三縁寺
 ・岩倉にある、浄土宗寺院。室町時代後期、天正年間に開創された。当初は三条大橋の東詰、江戸時代の三奇人の一人である高山彦九郎像の辺りに西願寺、養福寺、高樹院と4ヶ寺が並んであったそうです。戦後にいずれも移転し、最後に三縁寺が1979年にこちらに移転してきたそうである。表門を入ると正面階段の上に庫裏、右手の階段を登った左手に本堂があり、庫裏と本堂の間に書院があり、書院の前には前庭がある。本堂の右手から坂を登っていくと墓地があり、その墓地の中に石の鳥居が見える。その奥に幕末の池田屋事件で亡くなった、宮部鼎蔵などのお墓がある。当時は池田屋の近くにあったため、当寺で埋葬されたそうである。

<今日の京都新聞
◆福笹に吉兆結び、幸せ祈願 京都・泉涌寺七福神巡り」 
福笹(ざさ)を手に寺院を回る新春の恒例行事「泉山七福神巡り」が14日、京都市東山区泉涌寺山内の寺院であった。商売繁盛や家内安全を願う多くの参拝者でにぎわった。泉山七福神巡りは毎年、成人の日に行われる。山内の寺院では戒光寺に弁財天、雲龍院に大黒天など七福神をそれぞれまつる。番外となる新善光寺愛染明王泉涌寺楊貴妃観音堂を含めた9カ所をめぐる。

 参拝者は福禄寿をまつる即成院で福笹を授かって巡回を始めた。縁起物のタイや俵、熊手などを表した「吉兆」を福笹に飾り付け、一年の幸せを願い、各寺で手を合わせて祈願していた。

 戒光寺では、小正月にちなんで邪気を払うとされる小豆がゆが振る舞われ、参拝者が体を温めていた。