今月の課題整理。そして2月以降も。

 朝5時起床。今日の予定確認。朝から会議。午後4時から営業打合せで出張する。
 常にスケジュールを確認し、その間にデスクワークの充実を図れるように努めている。ようやく今月の処理案件と2月の処理案件のリストを整理。3月までの滑り出しはいいのかも。
 
(1月16日生まれの偉人)
◆井上 馨(いのうえ かおる、天保6年11月28日(1836年1月16日) - 1915年(大正4年)9月1日)は、日本の武士・長州藩士、政治家、実業家。本姓は源氏。清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む安芸国人毛利氏家臣・井上氏。桂太郎は娘婿。太政官制時代に外務卿、参議など。黒田内閣で農商務大臣を務め、第2次伊藤内閣では内務大臣など、数々の要職を歴任した。
 明治維新後は大蔵省に入り、主に財政に力を入れた。明治6年1873年)、司法卿・江藤新平らに予算問題や尾去沢銅山の汚職事件を追及され辞職。一時は三井組を背景に先収会社(三井物産の前身)を設立するなどして実業界にあったが、伊藤の強い要請のもと復帰し、外務卿、外務大臣、農商務大臣、内務大臣、大蔵大臣を歴任。明治16年(1883年)、外務卿となった後は、鹿鳴館を建設。不平等条約改正交渉にあたる。さらにパリやベルリンに劣らぬ首都を建設しようと官庁集中計画を進めた。条約改正、官庁集中計画は井上辞任に伴い頓挫した。その際に井上の秘書として活躍したアレクサンダー・フォン・シーボルトは勲一等、兄アレキサンダーと共に交渉に関わったハインリッヒ・フォン・シーボルトには勲三等が後に与えられた。両名は医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男と次男である。また実業界の発展にも力を尽くし、紡績業・鉄道事業などを興して殖産興業につとめた。明治17年1884年華族令で伯爵、明治40年(1907年)には侯爵に陞った。日本郵船・藤田組、特に三井財閥においては最高顧問になるほど密接な関係をもった。これを快く思わなかった西郷隆盛は井上のことを「三井の番頭さん」と皮肉っている。尾去沢銅山事件に代表されるように実際に三井や長州系列の政商と密接に関わり、賄賂と利権で私腹を肥やし、散財するという行為が当時から世間において批判され、貪官汚吏の権化とされていた。

<今日の京都学>
大雄寺(だいおうじ)
・千本丸太町周辺にある浄土宗寺院。大雄寺は1603年、心誉上人によって開創された。しかし、1735年の天明の大火で焼失し、後年再建されたそうである。庫裏も本堂も、2015年に再建されたばかり。本堂の左手前には、楕円の卵のような形をしたお堂の中に地蔵菩薩像がお祀りされている。またその隣に映画監督山中貞雄(やまなかさだお)の石碑もある。庫裏の奥には枯山水の庭園があった。江戸時代の儒医者の松下見林のお墓がある。
・松下見林(まつした-けんりん・1637−1704)江戸時代前期の医師、儒者寛永14年1月1日生まれ。大坂の医師松下見朴の養子。儒医古林見宜(けんぎ)に学ぶ。京都で医業のかたわら「三代実録」を校訂し,「異称日本伝」などをあらわす。後年,讃岐(さぬき)高松藩主松平頼常につかえた。元禄(げんろく)16年12月7日死去。67歳。本姓は橘。名は秀明、慶摂。字(あざな)は諸生。号は西峯山人。
【格言など】謹んで墓碣を建つる勿(なか)れ、吾が後人に期するところ,著述の在るあり、もって百世に朽ちざるにたらん(遺言)