成人の日に寄せて

  本日は成人の日。今年はコロナ禍の中で成人式がほとんどキャンセルされてしまっていますが、新成人の皆さんおめでとう。私は君たちの両親より上であるが、若い人たちの力と才能に期待しており,またこれからの時代を動かす素晴らしい力を信じています。自分を信じて自分を諦めずみんなそれぞれ自分を育てていきましょう。

〇観光案内(谷根千界隈)

 JR日暮里駅北改札口外から

→本行寺

 東京都荒川区西日暮里にある日蓮宗の寺院。山号は長久山。本尊は一塔両尊四菩薩。旧本山は平河山法恩寺。潮師法縁。

 <由緒>太田道灌の孫の太田資高が大永6年(1526)に江戸城内平河口に建立し、江戸時代に神田、谷中を経て、宝永6年(1709)に現在の地に移転しました。

景勝の地であったことから「月見寺」とも呼ばれており、花見寺(青雲寺)、雪見寺(浄光寺)などの寺院もあり、風流を好む江戸の文人墨客が集まったことで知られます。20世日桓(号一瓢)が小林一茶と親交があり、境内には、一茶の句碑のほか種田山頭火の「ほっと月がある 東京に来てゐる」の句碑があります。また、幕末から明治時代に活躍した永井尚志や儒学者の市河寛斎・米庵親子の墓などもあります。本行寺の前を通る坂道は御殿坂(俗に「御隠殿」と呼ばれる輪王寺宮の隠居所がこの先にあったからといわれる)、別名を乞食坂という。

→経王寺(きょうおうじ)<

<由緒>明暦元年(1655)創建の日蓮宗の寺院で大黒山と号し、境内の大黒堂には日蓮上人作という大黒天が祀られています。旧谷中七福神の一つです。慶応4年(1868)の上野戦争に敗れた彰義隊士がここへ隠れたため、新政府の攻撃を受けました。天保7年(1836)建立の山門には銃撃を受けた弾痕が今も残り、当時の激しさを今に伝えています。

夕やけだんだん

 東京都荒川区西日暮里三丁目10番・13番と14番の間にある、日暮里駅方面から谷中銀座に下る坂(階段)。御殿坂の延長線上にあたる。階段の傾斜は15度で緩やかであり、高低差は4メートル、段数は36段ある。幅は4.4メートルあり、長さは15メートルとなっている。階段上から谷中銀座を見下ろす風景は谷中関連の雑誌や番組にしばしば登場する有名なもので、夕焼けの絶景スポットにもなっている。階段の下には「谷中ぎんざ」と書かれたゲートがある。また、階段には野良猫・飼い猫を問わず、沢山の猫が集まっている。 

 <地名の由来> 平成2年に石段が改装された際の愛称募集時に、作家・タウン誌『谷根千』編集者の森まゆみ命名した。

 森まゆみ、渡邊直樹「巻頭インタビュー 森まゆみ:町づくりには、一人でいる自由が大事。それでも、寂しい時には参加できる」『地域人』第22号、大正大学出版会、2017年、 6-13頁、

幸田露伴旧宅跡

 かつて作家の幸田露伴が暮らした場所。今は現代風の家が並び、露伴氏自身の家の遺構は存在しないが彼が住んでた頃からあったサンゴ樹の木がそこにそびえ立っている。

 旧宅からすぐ目の前にはかつて谷中のランドマークとして建っていた五重塔があり、後の傑作『五重塔』が創作されるきっかけとなる。余談ではあるが幸田露伴氏自身は没後に青山霊園に静かに眠っている。戦災後、露伴は千葉県市川市の菅野に移り、そこが終の棲家となった。

天王寺

  天台宗寺院の天王寺は、護国山と号します。天王寺は、もと長燿山感應寺尊重院という日蓮宗寺院として、鎌倉時代に創建され、9ヵ院を擁する本寺でしたが、不受不施派に対する禁令により天台宗に改宗しました。享保年間には富くじ興行が許可されたことで賑い、湯島天満宮目黒不動龍泉寺とともに江戸の三富と称されるほどに賑わっていましたが、上野戦争では、当寺に彰義隊の分営が置かれたことから、本坊と五重塔を残して堂宇を全て焼失、さらに昭和32年の放火心中事件で五重塔を焼失しました。谷中七福神毘沙門天が祀られています。上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場9番札所です。

 天王寺は、東京都台東区の、JR日暮里駅にほぼ隣接する天台宗の寺院で、谷中の寺町の中心的な寺院の一つ。谷中霊園のかなりの部分は江戸時代は天王寺の境内であった。

平安時代の文永11年(1274年)、感応寺という日蓮宗の寺院として創建。江戸時代の元禄11年(1698年)、禁制であった不受不施派(法華信者以外からは、布施を受けず供養も施さないとする宗派)に属していたため住職は島流しとなり、天台宗に改宗することで存続した。その後は、当寺が寛永寺の北にあることから、比叡山延暦寺の北にある鞍馬寺に倣い毘沙門天を本尊(明治以降は本尊は阿弥陀如来となり、毘沙門天毘沙門堂に祀る)とし、寺名も天王寺に改められた。天王寺の寺名はこの毘沙門天王に由来する。

五重塔

 天王寺五重塔跡は、谷中霊園内にある礎石です。谷中感応寺に寛永21年(1644)に建立された五重塔は明和9年(1771)に焼失しました。その後、寛政3年(1791)に再建されたましたが昭和32年(1957)放火無理心中事件で焼失し、現在は史跡のみが残っています。幸田露伴の「五重塔」のモデルとしても知られています。             

谷中霊園横山大観渋沢栄一徳川慶喜、ニコライなど)

 谷中霊園は、東京都台東区谷中七丁目にある都立霊園。旧称の谷中墓地と呼ばれることも多い。面積は約10ha、およそ7,000基の墓がある。徳川家15代将軍慶喜鳩山一郎横山大観渋沢栄一などが眠る。かつては、感応寺(現・天王寺)の寺域の一部であり、中央園路は感応寺の参道であった。江戸期には、この感応寺で富くじが行われ、「江戸の三富」として大いに客を呼んだ。この客を当て込んで茶屋が参道入り口に立ち並び、現在でもその名残から墓地関係者は中央園路にある花屋のことを「お茶屋」と呼んでいる。中央園路の半ばには、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとなった五重塔跡がある。これは、1908年に天王寺より寄贈されたものであった。この五重塔は、1957年に谷中五重塔放火心中事件で焼失するが、東京都が史跡に指定した。五重塔跡は児童公園(天王寺公園)内にあり、公園に付随する形で駐在所がある。 なお、「谷中墓地」と称される区域には、都立谷中霊園の他に天王寺墓地と寛永寺墓地も含まれており、徳川慶喜など徳川氏の墓は寛永寺墓地に属する。 また、谷中霊園は桜の名所としても親しまれている。中央園路は通称「さくら通り」ともよばれ園路を覆う桜の枝に花が咲くと、まるで桜のトンネルのようになる。現在、公園型霊園として再整備するため、敷地の確保を目的として、使用料の払われていない箇所の無縁仏への改葬や大木など木々の伐採が進められている。1874年に明治政府は、天王寺の寺域の一部を没収し、東京府管轄の公共墓地として谷中墓地を開設した。1935年(昭和10年)に谷中霊園と改称された。谷中墓地で法要ができない不便さを解消するため、伯爵島津忠寛が発起人となって、1893年に浄土宗の寺院である功徳林寺が建立された。墓地に隣接した土地に寺院が建立された。

全生庵

 全生庵山岡鉄舟居士が徳川幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治十六年に建立した。尚、居士との因縁で落語家の三遊亭円朝墓所があり円朝遣愛の幽霊画五十幅 明治大正名筆の観音画百幅が所蔵されている。(全生庵七世現住職 平井正修 記)全生庵(ぜんしょうあん)は、東京都台東区谷中五丁目にある臨済宗国泰寺派の寺院。山号は普門山。本尊はかつて江戸城の守り本尊だった葵正観世音菩薩。開基は山岡鉄舟1880年明治13年)、山岡鉄舟明治維新に殉じた人々の菩提を弔うために創建を発願。国泰寺から越叟義格(松尾義格)を開山に招聘して1883年(明治16年)に創建した。落語を代表する名人・初代三遊亭圓朝の墓があり、毎年8月11日近辺に、本庵、落語協会円楽一門会のそれぞれが本庵にてイベントを開催する。

大圓寺

 日蓮宗寺院の大円寺は、高光山と号します。大円寺の創建年代等は不詳ながら、大円院日梗聖人が開基となり創建、上野清水門脇から当地へ移転したといいます。境内には笹川臨風の「お仙と春信の顕彰碑」、永井荷風の「笠森阿仙之碑」があります,天正年間(1532年-1555年)大円院日梗の開基で上野清水門脇に創建され、元禄16年(1703年)現在地に移転した。明和5年(1768年)火災により焼失した。現在の本堂は昭和9年(1934年)に再建されたもの。境内には「錦絵開祖鈴木春信」碑(笹川臨風撰、題字は東京美術学校(現東京芸術大学)校長をつとめた正木直彦の筆)、「笠森阿仙の碑」(永井荷風撰)がある[1]。笠森お仙は江戸時代、谷中・笠森稲荷前の水茶屋の看板娘で、江戸三美人の1人として知られ、浮世絵師鈴木春信が錦絵にその姿を描いた。ただし、この「笠森稲荷」は大円寺ではなく、現在の功徳林寺にある笠森稲荷である。同じ谷中にあるため誤認されがちで、荷風大円寺の方をお仙の笠森稲荷とみなし、この碑を建てた。

森鴎外記念館

 明治の文豪森鴎外が誕生して150年目の2012年、2008年より改築のため休館しておりました「文京区立本郷図書館鴎外記念室」が、新たに「文京区立森鴎外記念館」として生まれ変わりました。文京区千駄木は、鴎外がその半生を過ごした地です。記念館が建つ場所は、鴎外の旧居「観潮楼」の跡地で、鴎外は1892(明治25)年から、亡くなる1922(大正11)年までここで過ごしました。小説家、戯曲家、評論家、翻訳家、陸軍軍医と、いくつもの顔をもつ鴎外は、その業績から傑出した才能は明らかですが、文化人たちとの交流からも人間鴎外の大きさを知ることができます。

森鴎外について>

 本名森林太郎。1862(文久2)年、代々津和野藩の典医を務める森家の長男として生まれました。10歳のとき父と共に上京し、ドイツ語を学び東京大学予科に最年少で入学。大学では医学を学び、卒業後軍医となりました。1884(明治17)年からは、軍の衛生学の調査及び研究のためドイツへ留学しました。帰国後は軍医としての仕事のかたわら、小説「舞姫」「雁」「山椒大夫」「高瀬舟」、史伝「渋江抽斉」などを執筆。医学・文学の評論や小説・戯曲等の翻訳、ヨーロッパ文学の紹介などを行い、明治を代表する知識人として活躍しました。1907 (明治40)年には陸軍軍医総監・陸軍省医務局長に就任、1916(大正5)年まで務めました。陸軍を退職した翌年からは、帝室博物館総長兼図書頭の職につき、上野の帝室博物館や秋には奈良の正倉院にも赴き、亡くなる直前まで仕事を続けました。千駄木団子坂上にあった「観潮楼」には家族とともに30年間、1922(大正11)年7月9日、60歳で亡くなるまで暮らしました。

→薮下通り

 薮下通りは、 中山道 (国道17号線)と不忍通りの中間の本郷台地の中腹に、 根津神社裏門から駒込方面へ通ずる古くから 自然に出来た脇道です。「薮下道」 とも呼ばれて親しまれている道で、昔は道幅もせまく、 両側は笹薮で雪の日には、 その重みで垂れ下がった笹で道が塞がれて歩けなかったそうです。この道は、 森鴎外の散歩道で小説にも登場し、 また、 多くの文人がここを通って 鴎外の観潮楼を訪れたそうです。 閑かな道です。

根津神社

 日本武尊が1900年近く前に創祀したと伝える古社で、東京十社の一社に数えられている。境内はツツジの名所として知られ、森鷗外夏目漱石といった日本を代表する文豪が近辺に住居を構えていたこともあり、これらの文豪に因んだ旧跡も残されている。

 現在の社殿は宝永3年(1706年)、甲府藩主徳川家宣(のち征夷大将軍)が献納した屋敷地に造営されたものである。権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作とされている。社殿7棟が国の重要文化財に指定されている。古くは「根津権現」とも称された。この呼称は明治初期の神仏分離の際に「権現」の称が一時期禁止されたために衰退したが、地元では現在も使われる場合がある。単に「権現様」とも称される。文学作品では「根津権現」として出てくることが多い。

→千代田線根津駅で終了