殿村美樹さんは語る。「お金をかけずにメディアが飛びつくPR戦略」

 殿村さんはPR会社(株式会社TMオフィス)の代表取締役である。
 「地方に秘められた貴重な文化や、時代に取り残されそうな観光資源・・・ 私たちは、このような地方の魅力を発掘し、マスコミ報道とともに、時代のニーズにマッチした魅力へ復活させ、活性化するPR戦略を得意としています。そのポイントは、独自の着眼点。これまでの常識や概念にとらわれず、自由な発想で見つめることが、「古い」と言われていたものを「斬新」なイメージに変え、再び輝く宝へと蘇らせます。」(TMオフィスのHPから抜粋)
 殿村さん流の戦略が、きちんと時代を読んだうえで、ブームを仕掛け、ブレイクされていく法則を知っているということ。
 殿村さんの提案はシンプルで的を射る感じ。まずはちょっとしたアイデアと工夫を。また「お金をかけない」という姿勢は、何でも行政や自己資本に頼るものではなく、ほんの少しの費用でせいぜい10万円以内くらい。ご本人も「今年の漢字一字」「ひこにゃん」「佐世保バーガー」「うどん県」などの成功例はもとより個人商店の成功例や地方のシャッター通り復活の話など、今の不景気なご時世の生抜き方を提案していた。殿村さんが強調されていた「三方が得をする」つまり売り手、企画者、お客さんが喜ぶという形や、いろんな人の話に耳を傾け、多くの人に企画に参加してもらうというスタイルが確立する。
 <ポイント>
 ・商品は、まずは人間の本能と五感に訴えることが大事。
 ・世間で何が流行っているのか、どんなことなら人々は受け入れるのかよく感じ取ることが大事。
 ・現代人の脳というのは言葉よりもビジュアルで反応する。
 ・現代は特に、ネーミングが大事。ネーミングひとつで売れたりする。
 ・言葉を使う場合、社会が分かる言葉を使わないといけない。(=専門用語などで商品を紹介しても、一般人はぴんとこないので売れない)
 ・商品というのは、ストーリーがあって、人々の共感があれば、売れる。
 さらに、社会的なブームを引き起こすためにはどの様な条件を満たす必要があるか、どの様な流れでブームは起こっているのか、そして、具体的なPR戦略の立て方、PR企画書やテレビ用リリースの書き方を説明。テレビは「より深く理解させる」メディアではなく、「より多くの人に理解させる」メディアで、その為に人間の本能を刺激するコンテンツを好むとのこと。そして、PR戦略でテレビを利用するためには、テレビのその性質を理解した上で、以下の3条件
1. 見えないものをビジュアル化する
2. わかりやすいストーリーで考える
3. 誰もが共感できるテーマをつくる
を満たす必要があるとの事。
 さらに、その上で、この3条件をみたすためのテクニックとして、以下の10項目を紹介。
1. シーズンに合わせて五感を刺激する
2. みんなで完成させる芸術作品をつくる
3. むずかしいことは音楽で説明する
4. 魅力やテーマを「ひと言」で説明する
5. 「三方よし」の社会貢献をする・・・戦略の基本原則として「三方よし」を唱えておられて、これは「売り手よし、買い手よし、世間よし」
6. 笑える意外性(サプライズ)をつくる
7. パロディを活用する
8. 「ちょっと深いストーリー」をイベント化する
9. 「真のご当地モノ」を活用する
10.ちょっとだけ常識を破ってみる

◆「売れないものを売るズラしの手法」(殿村美樹著、青春出版社 1400円)から
 香川県知名度を飛躍的に高めた「うどん県」キャンペーンをはじめとして「佐世保バーガー」「ひこにゃん」など地域活性化につながったPRを手掛けてきた著者が、実体験からのノウハウを率直につづった。地域の商品そのものは変えず、お金をかけずに、売り込み対象や使い方を「ズラして」新たな市場を開拓する手法に焦点を当てている。
 「うどん県」キャンペーンは、さぬきうどんの売り先を地元の人々から観光客にずらす発想でスタートした。そんな中で「香川県をうどん県に改名します」というプロモーションビデオが生まれたが、マスメディアの反応は鈍い。そこでインターネットの情報発信源となっている有名ブロガーを集めて発表会を開催したところ、県庁のサーバーがダウンするほどのアクセスが殺到、新聞やテレビも取り上げて全国的なブームを呼んだ。
 また「佐世保バーガー」は、米兵の家族が暮らす住宅街で〝ママの味〟としてつくられているハンバーガーと、米軍基地のバーの雰囲気を組み合わせて紹介したところ大ヒットにつながった。「ひこにゃん」は観光地の紹介よりも魅力的なキャラクターを前面に出し、女性ファンを増やして観光地に呼び込む戦略が成功したという。このほか決まった量の酒が入るとっくりの技術を応用し、決まったカロリーのご飯をよそうことができる茶碗の開発や、親を対象にした婚活セミナーなど実例は盛りだくさん。自治体が地域の人材、産品を活用する際に応用できるアイデアを見つけることができそうだ。
 「人」「時」「場所」をズラすことでヒットを生み出す著者の手法と豊富な事例が紹介されている。 慣習や思い込みによってせっかくの素晴らしい商品や企画、アイデアが埋没してしまっていることが多々あるが、お金をかけずにポイントをズラすことで大きな成果を生み出すその着眼点は目からウロコだ。

(2月7日生まれの偉人)
高田屋嘉兵衛(たかたや かへえ、明和6年1月1日(1769年2月7日) - 文政10年4月5日(1827年4月30日))は、江戸時代後期の廻船業者、海商である。淡路島(現在の兵庫県洲本市五色町)の農民の子として生まれる。漁業に従事し、18歳で兵庫へ出て廻船業者を志し、淡路と大坂とを往復する瓦船に乗る。寛政2年(1790年)に樽廻船の水主から、船頭となる。紀州での鰹漁や、和泉屋伊兵衛のもとで船頭となり酒田へ航海して資金を貯める。寛政7年(1795年)には、兵庫の北風家の助けを得て、庄内で1700石積の辰悦丸を建造し本格的に廻船業、蝦夷地経営へ乗り出す。近藤重蔵間宮林蔵最上徳内などの江戸幕府役人と接触し、信を得て蝦夷地交易を許可される。幕命により択捉航路を開き、蝦夷地物産売捌方となる。また、箱館(函館)の北洋漁業の基を築いた功労者である。近藤重蔵に依頼され、国後島択捉島間の航路開拓を行った。択捉島は鱒・鮭が豊富で、嘉兵衛は17ヶ所の漁場を開き、島に原住していたアイヌの民を雇って漁法を教え、彼らの生活向上に資した。享和元年(1801年)、国後航路の発見・択捉島開拓の功により、33歳の嘉兵衛は幕府から「蝦夷地常雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許された。嘉兵衛は漁場を次々開拓し、蝦夷地経営で「高田屋」の財は上昇した。文化3年(1806年)、箱館の大火で町の大半が焼失した時、高田屋は被災者の救済活動と復興事業を率先して行なっていった。市内の井戸掘や道路の改修、開墾・植林等も自己資金で行なうなど、箱館の基盤整備事業を実施した。造船所も建設し、兵庫から腕利きの船大工を多数呼び寄せ、官船はじめ多くの船を建造していった。文化9年(1812年)幕府によるロシア船ディアナ号艦長ヴァーシリー・ゴローニン幽囚の報復として、嘉兵衛は国後島で副艦長のリコルドにより捕えられた(ゴローニン事件)。ディアナ号でカムチャツカ半島ペトロパブロフスク・カムチャツキーへ連行されるが、翌年帰国。帰国後の嘉兵衛は松前奉行を説き伏せ、ロシア側に侵略の意図が無いことを納得させ、人質解放に尽力した。また、幕府の蝦夷御用船頭に任ぜられた。
◆志賀 潔(しが きよし、1871年2月7日(明治3年12月18日) - 1957年(昭和32年)1月25日)は、日本の医学者・細菌学者である。赤痢菌の発見者として知られ、朝鮮総督府医院長、京城医学専門学校校長、京城帝国大学総長などを歴任した。赤痢菌の発見とともに化学療法を研究し、明治時代の日本の近代化のなかで世界に通用する科学研究の成果を成し遂げた先駆者と評される。赤痢菌の学名(属名)は志賀に因む Shigella であるが、これは主要な病原細菌の学名に日本人の名前が冠されている殆ど唯一の例となった。私生活では清貧を貫き、数々の名誉を得ながらも晩年は質素な暮らしに徹した。