アベノミクスってどうなるの?まさかの国敗れて財務省あり』でも。そういえば昨年のバレンタインデー2月14日には、『1ドル75円台から82円』の円安の動きがったが。侍ジャパン、本格的始動へ

 先週は、パナソニックストップ高だとか。トヨタも上方修正だとか。円安になったとたんに製造業は元気になった。まさに、カンフル剤。アベノミクスはカンフル剤。そして悪いのは日銀。デフレを放任してきた白川総裁。3月19日に副総裁2人の任期切れと同じ日に前倒し辞任するとのニュースでまた株価上昇。アベノミクスで円安・株高、もしかすっとデフレ脱却=インフレになる? アベノミクスばかりが褒められてる今日この頃ですが、でも、忘れているが、昨年のバレンタインである。「当面は消費者物価の前年比上昇率1%を目途とする」と日銀が言い切り、「ゼロ金利政策と金融資産買入措置で強力に金融緩和を推進する」「資産買い入れ基金を10兆円増額する」と発表したあの2月14日である。あっという間に為替は1ドル75円台から82円の円安。8000円台の日経平均株価が1カ月で1万円の大台を超えました。25%増。震災後、高値更新。主役は外国人。12週連続買い越しでした。
 1%でこの効果。2%目標なら今回の結果はまあ当然でしょう。けど3カ月もちませんでした。4月に2回あった金融政策決定会合で追加の金融緩和策を発表しなかった。4月の業況判断指数(大企業製造業の景気を占う)はマイナス、販売価格判断指数(上昇回答比率から下落回答比率を引いたもの)も前年末より悪化してしまった、要は「(輸出企業ばかりが喜ぶ)インフレにはしたくない。デフレでいい。景気回復策はほかでやってくれよ」という白川総裁の正論かも。「株高がいい、円安がいい、インフレがいい」と政財界、とくに輸出企業からCMを頂戴してるメディアはこぞってアベノミクスを大絶賛。さん、このままでいいんでしょうか。。。
 2014年に8%の消費税税率アップの可否は、13年秋ごろの景気で判断する。「ほら、景気が回復してるだろ? アベノミクスのおかげだよ」と財務省は必死に演出しようとしている。増税すれば景気は腰折れ確実。日本経済を失速させても増税したい。そのためのアベノミクス?国破れて財務省あり、となるんでしょうか。

【WBC】侍ジャパン、本格的始動へ宮崎集結
 3月に開催される第3回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で3連覇を狙う日本代表候補選手らが14日、宮崎市内のホテルに集合した。15日から始まる宮崎合宿で山本浩二監督(66)率いる「侍ジャパン」が本格始動。17日の広島、18日の西武との強化試合を経て28人の代表選手を決定する。
 山本監督は全体ミーティングで「みんなの気持ちが一つになるというのが一番大事。みんなが信じ合って一日一日、目標に向かっていきましょう」とあいさつ。最後に「ともにアメリカへ」と力強く声を張り上げた。メジャー組が不参加の中、主将の阿部慎之助捕手(巨人)を中心に代表候補33選手が参加して21日まで合宿が行われる。3月2日の開幕に備えて、京セラドーム大阪で23、24日にはオーストラリアと壮行試合を行い、26日には阪神との強化試合を行う。日本が出場する1次ラウンドA組が開催されるヤフオクドームで28日に巨人との強化試合を行い、本大会初戦のブラジル戦に臨む。


(2月14日生まれの偉人)
◆植木 枝盛(うえき えもり、安政4年1月20日(1857年2月14日) - 明治25年(1892年)1月23日)は、明治時代の思想家、政治家、自由民権運動の理論的指導者。
 1877年(明治10年板垣退助に従って帰郷し書生となる。『無天雑録』を執筆し始める。立志社に参加し、立志社建白書を起草。西南戦争による立志社の獄では逮捕されず、高陽社が創立され、機関紙『土陽新聞』『海南新誌』の編集・執筆にあたる。1878年明治11年)愛国社再興のために四国、中国地方に遊説、8月『尊人説』を執筆。12月、頭山満に招聘され福岡に向かい、向陽義塾の開校式に出席して演説した。『愛国志林』『愛国新誌』の主筆として論陣を張り、1881年明治14年)に、私擬憲法の中では最も民主的、急進的な内容とされる『東洋大日本国国憲按』を起草。1882年(明治15年)4月8日、板垣の岐阜遭難を受けて大阪での酒屋会議に出席。5月に上京し自由党臨時会に出席し、馬場辰猪・中江兆民・田中耕造・田口卯吉・末広重恭と共に『自由新聞』社説を担当、板垣外遊をめぐる内紛のためのちに分裂。1884年明治17年)東海、北陸地方を遊説して帰郷。代言人試験に遅刻してあきらめる。1886年明治19年高知県会議員に当選。1888年明治21年)大阪に向かい、中江兆民の『東雲新聞』を手伝い、幸徳秋水らと知り合う。京都で馬場辰猪の追悼会と同志社設立のための会合に出席する傍ら遊説。10月1日には上京し、後藤象二郎の労をねぎらい、大同団結運動では大同倶楽部に所属し、大隈重信外相の条約改正問題を攻撃するため、福澤諭吉寺島宗則副島種臣を訪問して反対運動の工作をし、建白書を執筆。直後に玄洋社による「大隈重信爆殺未遂事件」が起こったが、条約案は葬り去られた。愛国公党設立に尽力し、1890年(明治23年帝国議会開設にあたり、高知県から第1回衆議院議員総選挙に立候補し当選。1891年(明治24年)2月、板垣や栗原亮一らとの意見の違いから立憲自由党を脱党、愛国公党(土佐派)系を率いる。8月、富士山に登山。1892年(明治25年)、第2回衆議院議員総選挙を前に胃潰瘍の悪化により36歳(数え年)で死去。その突然の死から、毒殺説もある。
◆岡倉 天心(おかくら てんしん、1863年2月14日(文久2年12月26日) - 1913年(大正2年)9月2日)は、日本の思想家、文人。本名は岡倉覚三(かくぞう)。幼名は岡倉角蔵。東京美術学校(現・東京藝術大学)の設立に大きく貢献し、また日本美術院を創設した。近代日本における美学研究の開拓者で、英文による著作での美術史、美術評論家としての活動、美術家の養成といった多岐に渡る啓発活動を行い、明治以降に於ける日本美術概念の成立に寄与した。
◆広田 弘毅(ひろた こうき。1878年明治11年)2月14日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の外交官、政治家。勲等は勲一等。旧名は丈太郎(じょうたろう)。旧字体で廣田 弘毅(ひろた こうき)とも表記される。外務大臣(第49・50・51・55代)、内閣総理大臣(第32代)、貴族院議員などを歴任した。文官では唯一のA級戦犯となり死刑となった。