しっかりとこの夏を乗り切っていこう。

◆今日から8月。スタートダッシュよくこの夏を乗り切ろう。去年の今日のブログではないが、昨年の二の舞にはなるまい。ブログも連続10カ月を過ぎた。ちょうど今日で305日目。婚月、来月でちょうど12カ月になる。頑張って行こう。今日の偉人シリーズも8カ月目に入る。あのにぎわいのある東京スカイツリー東武鉄道を再建し、東武といえば根津王国にした初代根津嘉一郎と昨日の柳田國男と対比される民俗学者宮本常一の誕生日である。
 自分自身の将来、家族のこと、親の介護などなど様々な課題が今の自分は抱えている。当面は親の介護であり、自分のこれから姿が大きな課題であろう。そのためには、自分自身の本音と向き合うことが不可欠である。自分自身が我慢することも大事であるが、我慢だけでは何も解決しないであろう。逆にストレスが係、自分を見失う結果になろう。どう夢を描くがが大事である。そのためにも自分と向き合おう。なやみ、苦しんでも結果は出ないであろう。夏を乗り切っても、これが見えなければどうにもならないであろう。かくあるべしと言うことは分かっている。でも、そのまま進むのは自分らしくないことも分かっている。最近そのジレンマに蒸す場まれている。情けなく自分を見ていても、現実はそうはいかないことも分かっているが、それを望む自分がいることも本当である。大人であればかくあるべしに活きて行くべきであろう。いぜんであれば、酒で片付けていたが、それもむなしい。楽しい酒であればよいのだが。

◆由伸「ここで決めたい」2年ぶりサヨナラ打  http://hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20130801-OHT1T00102.htm
 巨人6x―5ヤクルト(1日・東京ドーム) 5―5の9回2死一、三塁、代打で登場した高橋由が、シーソーゲームに決着をつけた。2年ぶりのサヨナラ打に「何とかここで決めたいと思った」とお立ち台で胸を張った。

◆『LEAN IN(リーン・イン)女性、仕事、リーダーへの意欲』 (シェリル・サンドバーグ日本経済新聞出版社)から http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4532318971
<ポイント>
◎招待客の一人が「リベリアのような国で内戦の恐怖や集団レイプに苦しむ女性たちを助けるには、私たちアメリカの女性はどうしたらいいでしょうか」と質問したところ、リーマは単刀直入にこう答えたのである。「もっと多くの女性が権力のある地位に就くことです」
Facebook社内のリスクテークを促すポスターの文言
「運は勇気ある者に味方する」
「とりあえず始めよう、大胆に」
「怖がらなければ何ができる?」
◎「ここで働くことになれば、私は営業チームを任されることになります。そのときには、私がタフな交渉のできる人間であることが望ましいでしょう。あなたと私が反対の立場で交渉するのは、今回が最後です」(ザッカーバーグとの報酬交渉にて)
◎私が奨めるのは、二つの目標を立てることである。一つは遠い夢、もう一つは一八カ月プランである
◎このときのエリック(シュミット)の答えは、これまで私が耳にした中でキャリアに関する最高のアドバイスだった。彼は私のスプレッドシートを手で隠すと、アホやな、と言った(これも最高のアドバイスの一部である)。そして、仕事を決めるときの基準は一つしかない、それは成長、それも急成長だ、と断言した。会社がハイペースで成長していれば、いまいる人間がこなせる以上の仕事がどんどん湧いてくる。反対に会社が伸び悩んだり横這いになっていたりしたら、仕事は減り、人間のほうが仕事より多くなる。そうなると社内の空気は淀み、ごますりや駆け引きが横行し、士気は低下する。
◎さまざまな研究で、メンターは実績と将来性でメンティーを選ぶと指摘されている。
◎率直にほんとうのことを言ってもらったら、みんなの前で感謝することが大事だ。
◎女性が職場でもっと力をもつ必要があるのと同じように、男性はもっと家庭で力を発揮しなければならない。多くの女性が、うかつな一言や不注意なふるまいで夫のやる気を削いでいるように思う・

(8月1日生まれの偉人)
◆根津 嘉一郎(ねづ かいちろう=初代、万延元年6月15日(1860年8月1日) - 1940年1月4日)は政治家、実業家。東武鉄道南海鉄道(現・南海電気鉄道)など日本国内の多くの鉄道敷設や再建事業に関わった。「山梨県の商家に生まれる。県会議員などを務めた後、企業の株取得を通じて会社経営に乗り出す。現在のアサヒビール富国生命など多くの企業の再建に手腕を発揮した。「ボロ買いちろう」と揶揄されたほど、経営難に陥っている会社を多く買収したが、それらを見事に再建させた。ボロ会社と言われていた東武鉄道を一躍優良企業に変貌させ、また、東武鉄道をはじめとする24社にのぼる鉄道会社の経営に関係したので「日本の鉄道王」と呼ばれることで有名。事業以外にも、武蔵高校(現:武蔵大学)の創立や、古美術収集などにも精力を注いでいた。また1904年からは衆議院議員を連続4期、1920年からは貴族院議員もつとめている。
 郷里の先輩の若尾逸平から「金儲けは株に限る。株は運と気合だ」と言われ株の世界に入る。「乗り物」と「灯り」というキーワードをもらった嘉一郎は、東京電灯株を徐々に買い占め、ついに経営権を手に入れる。そして渾身の力を尽くして、東武鉄道の再建を依頼され社長に就任し、コスト削減とリストラを行い、成功する。日光線を成功させ、ボロ会社は一気に優良企業になった。根津嘉一郎が経営を手がけた企業は、日本第一麦酒(現:アサヒビール)、富国徴兵保険(現:富国生命保険)、日清製粉などがある。
 根津嘉一郎は自らを「生涯、他人に使われたことがない」と話している。多くの実業家は丁稚からたたき上げ、功労を積み、出世街道を登りつめたが、根津嘉一郎は生涯一匹狼を通し、人の下僚になり、使われた経験や人の恩顧を被った経験を持たなかった珍しい人物だ。「会社再生の秘訣は、どこに不正と不合理があるか、その病原を退治することが一番近道である」
◆室生 犀星(むろう さいせい、本名: 室生 照道(てるみち)、1889年(明治22年)8月1日 - 1962年(昭和37年)3月26日)は、石川県金沢市生まれの詩人・小説家。
 1910年(明治43年)上京。その後は、帰郷・上京をくりかえす。1913年(大正2年北原白秋に認められ白秋主宰の詩集『朱欒(ざんぼあ)』に寄稿。同じく寄稿していた萩原朔太郎と親交をもつ。1916年(大正5年) 萩原と共に同人誌『感情』を発行。1919年(大正8年)までに32号まで刊行した。この年には中央公論に『幼年時代』、『性に目覚める頃』等を掲載し、注文が来る作家になっていた。1929年(昭和4年)初の句集『魚眠洞発句集』を刊行。
 1930年代から小説の多作期に入り1934年(昭和9年)『詩よ君とお別れする』を発表し詩との訣別を宣言したが、実際にはその後も多くの詩作を行っている。1935年(昭和10年)、『あにいもうと』で文芸懇話会賞を受賞。 芥川賞の選考委員となり、1942年(昭和17年)まで続けた。1941年(昭和16年)に菊池寛賞。戦後は小説家としての地位を確立し、多くの作品を生んだ。娘朝子をモデルとした1958年(昭和33年)の半自叙伝的な長編『杏っ子』は読売文学賞、同年の評論『わが愛する詩人の伝記』は毎日出版文化賞を受賞。古典を基にした『かげろふの日記遺文』(1959年(昭和34年))では野間文芸賞を受賞した。この賞金から翌年、室生犀星詩人賞を設定。
 抒情小曲集の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」の詩句が有名である。この句の通り、文壇に名を轟かすようになった後も金沢にはほとんど戻ることがなく、そのかわり犀川の写真を貼っていたという。
 ・室生犀星記念館 - 公益財団法人金沢文化振興財団 http://www.kanazawa-museum.jp/saisei/
◆ 宮本 常一(みやもと つねいち、1907年8月1日 - 1981年1月30日)は、日本の民俗学者山口県周防大島生まれ。大阪府天王寺師範学校(現大阪教育大学)専攻科卒業。渋沢敬三に見込まれて民俗学の道に入り、戦前から高度成長期まで日本各地をフィールドワークし続け(1200軒以上の民家に宿泊したと言われる)、膨大な記録を残した。宮本が所属したアチックミューゼアムは、後に日本常民文化研究所となり、神奈川大学に吸収されて網野善彦の活動の場となった。
 柳田國男とは異なり、漂泊民や被差別民、性などの問題を重視したため、柳田の学閥からは無視・冷遇されたが、20世紀末になって再評価の機運が高まった。益田勝実は宮本を評し、柳田民俗学が個や物や地域性を出発点にしつつもそれらを捨象して日本全体に普遍化しようとする傾向が強かったのに対し、宮本は自身も柳田民俗学から出発しつつも、渋沢から学んだ民具という視点、文献史学の方法論を取り入れることで、柳田民俗学を乗り越えようとしたと位置づけている(新版は、『説話文学と絵巻ほか 益田勝実の仕事1』に収録、ちくま学芸文庫)。宮本が残した調査記録の相当部分は、未來社から刊行されている『宮本常一著作集』(「第50巻 澁澤敬三」が、2008年に刊行)に収められているが、ここに収められていないものも少なくない。論文「瀬戸内海の研究―島嶼の開発とその社会形成‐海人の定住を中心に」の研究と、これまでのフィールドワークの業績のため1961年に東洋大学より文学博士号を授与されている。
 ・柳田國男について http://d.hatena.ne.jp/ks9215/#edit_in_place
 ・宮本常一「忘れられた日本人」(岩波文庫)より http://d.hatena.ne.jp/asin/400331641X/hisatunenet-22
  73歳で死に至るまで40年以上にわたって日本各地をくままく歩き、民間の伝承を克明に調査した民俗学者。伝承者としての老人たちの過ぎしてきた時代 と環境を、老人たちの人生と からめて聞き書きという手法で描いた代表作品。本人は、この本を「紙碑」であると言っている。女たちの生態、村のしき たり、問題の解決の方法、夜這いや夜逃げ、世間師たちの  話、など面白い話に満ちている。古老たちの語り口を上手に再現してる。
  ・1939年以来、日本全国を見ておきたいと思いつくままに各地を歩いた
  ・戦後故郷に帰って百姓になる。農閑期には戦前に世話になった仲間を訪ねて農業技術の伝達をした。あおのかたわら農村調査を行った。
  ・ある地域をできるだけくわしく、しらみつぶしに見た。歩いて見て人に疑問を尋ねた。一つの部落の成立と存続の様子がわかる。
  ・同じ地方へ何回も出ていくことにつとめた。こういう生活が1952年(45歳)まで続く。
  ・宮本の調査方法①目的の村を一通りまわりどういう村かを見る。②役場で倉庫の中を見せて貰って明治以来の資料を調べる。③役場の人に疑問な点を 確かめる。④森林組合、農協  を訪ねて調べる。⑤古文書があれば旧家を訪ねて必要なものを書き写す。⑥何戸かの農家を選定して個別調査をする。一 軒に半日。⑦疑問点を心の中において、村の古老にあう。疑  問から出発し、あとは自由に話してもらう。何を問題にしているかがわかる。これらを通 して、宮本が一番知りたいことは、今日の文化を築きあげてきた生産者のエネルギーが、ど  ういう人間関係や環境の中から生まれ出てきたかというこ とだ。
  そして、「旅する人」宮本常一民族誌を中心にした柳田国男民俗学に疑問を持ち、「生活誌」を大事にすべきであり、生活向上のテコになる技術を キメ細かく構造的に見るこ  とが大切だとしている。客観的なデータを整理・分析する民族誌ではなく、民族採集の仕事は「生きた生活」をとらえるこ とにある。実感を通して観察し、総合的にとらえる生活誌  を重要とした。戦前から高度成長期まで日本各地を対象にフィールドワークを行って、1  200軒以上の民家に宿泊して、膨大な記録を残している。23歳の時に投稿した論文が柳  田國男の目にとまる。そして3年後の25歳で生涯の師・ 渋沢敬三と出会い、4年後の32歳でアスチック・ミュジアムに入り、以後40年にわたって本格的な民族調査に没頭する。

<本の紹介>
渋沢敬三著作集 (第4巻)http://d.hatena.ne.jp/asin/4582429440
大正デモクラシーの時代と貴族院http://d.hatena.ne.jp/asin/479233196X
・旅する巨人―宮本常一渋沢敬三 (文春文庫)http://d.hatena.ne.jp/asin/4167340089

<昨年の今日> http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20120801/p1
 今年こそ掛け声倒れにならないように、しっかりこの夏を乗り切っていこう。