吉原の花魁とは。

<江戸学>
◆吉原の花魁とは。
 花魁(おいらん)は、吉原遊廓の遊女で位の高い者のことをいう。18世紀中頃、吉原の禿(かむろ)や新造などの妹分が姉女郎を「おいらん」と呼んだことから転じて上位の吉原遊女を指す言葉となった。「おいらん」の語源については、妹分たちが「おいらの所の姉さん」と呼んだことから来ているなどの諸説がある。 江戸時代、京や大坂では最高位の遊女のことは「太夫」と呼んだ。また、吉原にも当初は太夫がいたが、宝暦年間に太夫が消滅し、それ以降から高級遊女を「おいらん」と称するようになった。今日では、広く遊女一般を指して花魁と呼ぶこともある。

〇遊女には位があり、それによって揚代が決まっていた(『吉原細見』に格付けが記載されている。店にも大見世・中見世・小見世の別がある)。時代による変遷もあり、おおむね次の通りである。
太夫:高級遊女で吉原でもわずかな人数しかいなかった高尾太夫、揚巻太夫など、伝説的な遊女の名が伝えられている。宝暦年間(18世紀中頃)に吉原の太夫は姿を消した。
・格子:太夫に準ずる遊女であるが、やはり宝暦頃に姿を消した。
 花魁は宝暦以降の呼称であるため、太夫や格子は花魁ではない
・散茶:元々は太夫・格子より下位の遊女であったが、後に太夫・格子がいなくなったため高級遊女を指す言葉になった。
・座敷持:普段寝起きする部屋の他に、客を迎える座敷を持っている遊女。禿が付いている。
・呼出し:散茶・座敷持のうち、張り店を行わず、禿・新造を従えて茶屋で客を迎える遊女。
 本来は「呼出し」を花魁と呼んだと考えられる。これらより下位の遊女は花魁とはいわなかったようである。

高尾太夫(たかおだゆう)は、吉原の太夫の筆頭ともいえる源氏名高尾太夫は、吉原で最も有名な遊女で、その名にふさわしい女性が現れると代々襲名された名前で、吉野太夫夕霧太夫と共に三名妓(寛永三名妓)と呼ばれる。三浦屋に伝わる大名跡であった。
・二代目 - 万治高尾。仙台高尾・道哲高尾とも。11代のうち最も有名で多くの挿話があるが、その真偽は不明である。陸奥仙台藩主・伊達綱宗の意に従わなかったために、三叉の船中で惨殺されたというのはその一つである。このことが発端で伊達綱宗が隠居し、その後あの伊達騒動が起きている。

〇花魁道中(おいらんどうちゅう)花魁が禿や振袖新造などを引き連れて揚屋や引手茶屋まで練り歩くこと。今日でも歌舞伎や各地の祭りの催し物として再現されることがある。三枚歯の重くて高い黒塗下駄で八文字(はちもんじ)に歩くもので、吉原は「外八文字」(踏み出す足が外側をまわる)。京嶋原と大坂新町は「太夫道中」。「内八文字」(足が内側を回る)で歩く。きちんと八文字で歩けるようになるには3年かかったともいわれる。忘八(ぼうはち)遊女屋の当主。仁・義・礼・智・信・孝・悌・忠の8つの「徳」を忘れたものとされていた。禿(かむろ)花魁の身の回りの雑用をする10歳前後の少女。彼女達の教育は姉貴分に当たる遊女が行った。禿(はげ)と書くのは毛が生えそろわない少女であることからの当て字である。番頭新造(ばんとうしんぞう)器量が悪く遊女として売り出せない者や、年季を勤め上げた遊女が務め、マネージャー的な役割を担った。花魁につく。ひそかに客を取ることもあった。「新造」とは武家や町人の妻を指す言葉であったが、後に未婚の女性も指すようになった。振袖新造(ふりそでしんぞう)15-16歳の遊女見習い。禿はこの年頃になると姉貴分の遊女の働きかけで振袖新造になる。多忙な花魁の名代として客のもとに呼ばれても床入りはしない。しかし、稀にはひそかに客を取るものもいた。その代金は「つきだし」(花魁としてデビューし、水揚げを迎える日)の際の費用の足しとされた。振袖新造となるものは格の高い花魁となる将来が約束されたものである。留袖新造(とめそでしんぞう)振袖新造とほぼ同年代であるが、禿から上級遊女になれない妓、10代で吉原に売られ禿の時代を経なかった妓がなる。振袖新造は客を取らないが、留袖新造は客を取る。しかし、まだ独り立ちできる身分でないので花魁につき、世話を受けている。太鼓新造(たいこしんぞう)遊女でありながら人気がなく、しかし芸はたつので主に宴会での芸の披露を担当した。