「すべての仕事を紙1枚にまとめてしまう整理術 」(高橋 政史著)から

 トヨタのA3といえば、A3一枚にまとめてしまうというもの。本当はA4一枚にまとめたいが、それだと文字が小さくなって読めないかも。でも、決定者から見れば、ポイントがわかればいい。決定に必要な事項が入っていれば、紙一枚で十分なのです。ダラダラと資料をつけても意味がないかも。このポイントせりが悩みのたね。じっくりと考えることが大事。

<ポイント>
トヨタのA3」のイメージ

 1 背景

 2 現状

 3 ゴール

 4 課題

 5 解決策

 6 計画

『時給800円のフリーターが3年で年収1000万円に変わる仕事術』(松田 元著)から

【ポイント】
1.徒歩5分以上は即タクシー
 歩くべきかタクシーに乗るべきか悩んだら、積極的にタクシーに乗ろう。タクシーは時間を生み出す魔法のマシンである。(中略)目安としては、徒歩5分以上の距離はタクシーに乗ったほうが時間を有意義に使える。2キロ範囲であれば初乗り料金でタクシーに乗れるのだ。初乗り料金分を投資して、タクシー乗車時間内に1万円以上の付加価値ある仕事をつくると心に決めること。そうすることで、1つひとつの仕事に魂が入り、業務のクオリティーも上がるものである。
2.「明日・今度」ではなく、「今日・今」
 これは筆者の所感だが、稼げるビジネスパーソンは、小さな約束ほど大切にし、その約束を丁寧に守る傾向にあるように思う。そして彼らは、約束したことを即座に実現することを目指す。したがって、稼げるビジネスパーソンにとっては「即時処理が原則」である。とにかく決めたこと、約束したことをその場で実行に移すために、今・この瞬間、1つひとつの仕事をさばいていく。
 このスビード感のある処理と、小さな約束でも必ず守ってくれるという信頼が、時間を生み出し、将来のビジネス(お金)を生み出す。
3.メールはすべて携帯に転送し10分ごとにチェック
パソコンを開く環境にいなければ、取り急ぎ携帯電話のメールアドレスから、メールの内容を確認したむね返信をすればよい。大事なのは、返信する内容ではない。「私はあなたのメールを即座に確認していますよ」と合図をすることである。この、「即座に確認しますよ」という合図が、相手に安心感と信頼感を与える。そしてこの安心感と信頼感が、後に大金へと化けるのだ。
4.1日15時間以上働く
 "質より量"とはよく言うが、20代のうちは、"質"の仕事術を追求する暇があったら、とにかく働きまくったほうが早い。これは経営者としてではなく、一個人として経験上から学んだことだ。労少なくして稼ぎたいなど、虫がよすぎる。働きまくること。何をやるかも決めなくてもよい。はじめの頃は効率性も無視だ。とにかく、毎日最低15時間、できれば20時間働きまくると決めるのだ。
5.他人がやらない仕事を無給でやる
筆者も創業間もない頃、信頼も人脈も能力も経験も何1つない頃、何でエッジを立てればよいかまったくわからなかったことがある。そんなとき、筆者が行ったのは、"他人がやらない仕事を無給でする"というものであった。他人が嫌がること、他人が避けたがることを積極的に取り組んだ。それも無給で、である。無給で仕事をしていれば、「少しは目立つかな、よい経験になるかな」、という非常に安易な思いからだ。すると思いもよらず、この姿勢がまわりから非常に受けたのだ。仕事自体は無給ではありこそすれ、依頼された仕事を通じて、"さまざまな人脈"をつくることができた。しかも人脈をつくる上で、"無給"というのがこれまた効くのだ。
6.人と会うときは、相手のことを徹底的に調べ上げる
 稼げるビジネスパーソンが皆、実践している"ご縁の奥義"。それは、ご紹介いただいた方とお会いする前に、その相手のことを"徹底的に調べまくる"ことである。最低限、(1)出身地、(2)生年月日、(3)出身大学、(4)前職、(5)趣味、(6)夢・目標――の6項目は、事前に調べるべきだろう。事前に調べ上げておくことで、共通の話題も見つけやすくなるし、話も弾みやすい。何より、お会いする前から事前に下調べをしておけば、「よくお調べになっていますね」と、よい意味で相手の方が驚いてくれる。

 タイトルが面白く読んでみたら、こんな点が印象でした。起業することのむずかしさを垣間見た。起業しても成功するとはかぎらない。そこに至るまでの道のりを勉強しなければなるまい。

(2月8日生まれの偉人)
◆佐野 常民(さの つねたみ、1823年2月8日(文政5年12月28日) - 1902年(明治35年)12月7日)は、日本の武士(佐賀藩士)、政治家。日本赤十字社創始者。官職は枢密顧問官、農商務大臣、大蔵卿、元老院議長。勲等は勲一等。爵位は伯爵。称号は日本赤十字社名誉社員。佐賀の七賢人に挙げられている。名は栄寿、栄寿左衛門。子は佐野常羽。
◆川上 音二郎(かわかみ おとじろう、1864年2月8日(文久4年1月1日) - 1911年11月11日)は、筑前黒田藩(福岡藩)出身の「オッペケペー節」で一世を風靡した興行師・芸術家、新派劇の創始者。川上の始めた書生芝居、壮士芝居はやがて新派となり、旧劇(歌舞伎)をしのぐ人気を博した。「新派劇の父」と称される。1883年頃から、「自由童子」と名乗り、大阪を中心に政府攻撃の演説、新聞発行などの運動を行って度々検挙された。1885年に講談師の鑑札を取得。自由民権運動の弾圧が激しさを増した1887年(明治20年)には「改良演劇」と銘打ち、一座を率いて興行を行った。また、落語家の桂文之助(後の二代目曽呂利新左衛門)に入門、浮世亭◯◯(うきよてい まるまる)と名乗った。やがて世情を風刺した『オッペケペー節』(三代目桂藤兵衛作)を寄席で歌い、明治22年(1889)から明治27年、28年の日清戦争時に最高潮を迎えての大評判となる。川上一座は書生や壮士ら素人を集めたもので、書生芝居、壮士芝居と呼ばれた。1891年(明治24年)2月、書生芝居を堺市の卯の日座で旗揚げ。同年、東京の中村座で「板垣君遭難実記」などを上演。東京でもオッペケペー節が大流行した。川上は1893年、フランスへ渡り、2か月ほどの短い間だがパリの演劇事情を視察した。1894年、人気芸者の貞奴(本名:小山 貞)と郷土の先輩である金子堅太郎の媒酌で結婚した。 伊藤博文貞奴をひいきにしており、伊藤博文の三羽カラスといわれた金子堅太郎に媒酌の役目が回ってきたとも。
◆清沢 洌(きよさわ きよし、1890年(明治23年)2月8日 - 1945年(昭和20年)5月21日)は、ジャーナリスト、評論家。長野県生まれ。外交問題、特に日米関係の評論で知られ、またその太平洋戦争下における日記が『暗黒日記』として戦後公刊されたことでも名高い。なお名前は「冽(にすい)」でなく「洌(さんずい)」。存命中から「れつ」と呼ばれることも多く、本人もしばしばそのような署名を行っていた。
 清沢は1929年から1932年(昭和7年)までの3年間のほとんどを欧米での取材・執筆活動にあてることとなる。1929年にはアメリカの「暗黒の木曜日」とそれに続く大恐慌を現地で体験することになったし、また1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議は、雑誌「中央公論」の特派員という肩書で取材した。会議では、補助艦の対米比率7割死守を図る日本海軍側代表団と清沢は互いに批判的な関係にあり、清沢は「六割居士」という綽名を頂戴する始末であった。その他、この欧米滞在中にはチェコスロバキア外務大臣ベネシュ、イタリア首相ムッソリーニ、実業家ヘンリー・フォードなどと会見、それら会見記は公刊されている。また1931年(昭和6年)の満州事変勃発、1932年の上海事変は滞米中に遭遇しており、日本の大陸進出に対するアメリカの厳しい世論を目の当たりにすることにもなった。
 1932年、帰国した清沢は日本の内政・外交に対する鋭い評論を行うこととなる。満州国単独承認問題、国際連盟における満州問題の討議、引き続くリットン調査団派遣を巡って国内世論は沸騰していたが、「国を焦土と化しても」日本の主張を貫徹する、と答弁した外相内田康哉、スタンドプレーに終始し意味のある成果を引き出せなかった国際連盟首席全権松岡洋右をそれぞれ批判した「内田外相に問ふ」「松岡全権に与ふ」は、この時期の代表的評論である。また、数多くの国内講演、著作、雑誌論文などを通じて、清沢は商業主義・迎合主義に流されやすい日本のジャーナリズムに対する批判と、自己の漸進主義とでもいうべき自由主義の立場を明らかにしていった。1937年(昭和12年) - 1938年(昭和13年)には、堪能な語学力を買われてロンドン開催の国際ペン・クラブ世界会議の日本代表という立場で再び欧米を訪問し、各所で精力的な講演活動を行う。日中戦争の勃発・激化を受けて欧米の対日感情は極度に悪化していたが、愛国者を自負する清沢はむしろ積極的に講演で、あるいは現地新聞への投書などを通じて日本の立場の擁護・正当化を行っていった。皮肉なことに、彼自身が国内で反対の論陣を張っていた硬直的・非協調的外交政策のスポークスマンの役を担わされたわけである。また駐英大使を務めていた吉田茂とは、このロンドンでの新聞投書による世論工作の過程で親しくなっていったという。
 帰国後の清沢は、再び本来の対米協調を主軸とした外交への転換を訴える立場を取り、「新体制」「東亜新秩序」などの言葉に代表される抽象的かつ空疎な政策を諫め、アメリカを威嚇することで有利な結果を得ようとする外交政策の愚を説き、ドイツとの連携に深入りすることなく欧州情勢の混沌から距離をおくことを主張したが、事態は1940年(昭和15年)の日独伊三国軍事同盟、1941年(昭和16年)の日ソ中立条約、南部仏印進駐とそれらに対する米国の一連の対抗措置は、ことごとく自らが提言した潮流と相反する方向へ進んだ。