明石志賀之助。谷風梶之助。小野川喜三郎

<今日の江戸学トピック>
◆宇都宮の蒲生神社前にある、同地出身とされる伝説の「初代横綱明石志賀之助の像がある。江戸初期の寛永年間に活躍し、京都での天覧相撲に勝って「日の本開山」(=横綱?)の称号を与えられたとされるが、その実在を裏付ける史料はない。そして、寛政元年(1789)11月19日、谷風梶之助横綱免許が与えられた。身長189㎝、体重162㎏という恵まれた体型で谷風に改名してから5年間の9場所で63連勝という大記録を樹立。またこの連勝にストップをかけた小野川喜三郎も横綱免許をもらいました。まわしの前をしめ縄で飾り、帯刀して土俵入りすることが横綱になった証。この免許状を与えたのは熊本の細川越中守の家臣で「相撲の司家」として実権を握っていた吉田追風(おいかぜ)でした。

・明石 志賀之助(あかし しがのすけ、生没年不詳)は、下野国宇都宮(現:栃木県宇都宮市)出身の元大相撲力士。江戸時代前期に実在した人物とされ、日本相撲協会が2015年現在で初代横綱に認定している。従来の力技だけでなく相撲の技に関しても多く研究し、現在でも基本とされている四十八手の技を考案した人物とも言われている。
・谷風 梶之助(たにかぜ かじのすけ、1750年9月8日(寛延3年8月8日) - 1795年2月27日(寛政7年1月9日))は、仙台藩陸奥国宮城郡霞目村(現・宮城県仙台市若林区霞目)出身の元大相撲力士。本名は金子 与四郎(かねこ よしろう)。後年の文献など通俗上初代と扱われる場合も少なくない。初代は元禄時代大関であり讃岐の谷風と称されていたが、これに対して2代目は仙台の谷風と称されていた。第4代横綱だが、実質的な初代横綱。江戸時代の大横綱で、大相撲史上屈指の強豪。また、力量・人格の面で後の横綱の模範とされた。1768年(明和5年)に力士となり、「秀の山」と四股名を名乗った。1769年(明和6年)4月場所には伊達関 森右エ門(だてがせき もりえもんと改名し、看板大関として初土俵を踏む。「伊達関」の四股名仙台藩の伊達氏より下賜されたものだが、翌場所から伊達氏を憚り、達ヶ関と改名した(読みは「だてがせき」のまま)。1770年(明和7年)11月場所に前頭筆頭から再スタートを切ると徐々に地力を増し、1776年(安永5年)10月場所に2代目「谷風 梶之助」と改名。1781年(天明元年)3月場所後に大関へ昇進する。1784年(天明4年)には江戸相撲の浦風与八に見出され、江戸に来た雷電爲右エ門を預り弟子として鍛え上げた。さらにこの頃、小野川喜三郎や雷電爲右エ門とともに、最初の相撲黄金時代を築いた。後述の横綱制度や結びの一番終了後に執り行われる「弓取式」など、現在も残る相撲界の形式の多くがこの時代に作られた。
・小野川 喜三郎(おのがわ きさぶろう、1758年(宝暦8年) - 1806年4月30日(文化3年3月12日))は、近江国京町(現:滋賀県大津市)出身の元大相撲力士。第5代横綱。本名は川村 喜三郎(かわむら きさぶろう)。初代・小野川の養子となって、1776年(安永5年)に大坂相撲初土俵を踏み、1779年(安永8年)に江戸相撲に合流、久留米藩の抱えとなった。1782年(天明2年)3月場所7日目には、当時大関だった谷風梶之助の63連勝を止める殊勲の星を上げた。これ以降、谷風梶之助と小野川喜三郎の取組は、相撲史上に残る名勝負として現在まで語り継がれている。その功績が認められた形で、1789年(寛政元年)に吉田司家から谷風梶之助とともに横綱免許を授与された(事実上、現在に至る横綱制度の始まり)。1791年(寛政3年)6月11日には徳川家斉の上覧相撲が行われ、徳川家斉のリクエストによって谷風梶之助との対戦が組まれた。両者は変わらない熱戦を繰り広げて徳川家斉を喜ばせるなど、寛政の相撲繁栄期を築いた。1797年(寛政9年)に引退。

堀田 正敦

<今日の江戸学トピック>

◆堀田 正敦(ほった まさあつ)は、近江堅田藩、のち下野佐野藩の藩主。江戸幕府若年寄佐倉藩堀田家分家6代。陸奥仙台藩主・伊達宗村の八男。
 宝暦5年7月20日(1755年8月27日)に陸奥仙台藩主・伊達宗村の八男(第十七子)として仙台に生まれる。幼名は藤八郎。母は側室・性善院。安永4年(1775年)、中村姓を与えられ中村村由(なかむら むらよし)を名乗る。天明6年(1786年)3月26日、堀田正富の娘婿となり、堅田藩1万石の藩主となる。なお、堀田家に養子入り以前から子供がおり、次男で陸奥一関藩主となった田村宗顕は堀田家養子入り2年前の天明4年(1784年)に生まれている。
寛政2年(1790年)6月10日、若年寄になり、以降は当時の老中・松平定信寛政の改革を助けたが、後に定信とその子・定永が陸奥白河藩から堀田宗家が治める下総佐倉藩への転封を画策した際には、佐倉藩主・堀田正愛を助けて定信父子と争い、その企てを阻止した。寛政8年(1796年)に甥の仙台藩主・伊達斉村が後継者を正式に決めずに死去した時に、実兄・伊達重村の正室・観心院や甥の三河刈谷藩主・土井利謙と共にその処理に関与し、跡を継いだ伊達周宗(当時乳児)の後見役となる。ただし、仙台藩の藩政にことさら関与したわけでなく、あくまで幕府や仙台藩双方の仙台藩の治世不安解消が目的であり、蝦夷巡検の際には松平定信に周宗の後見を託している。また、文政11年(1828年)に仙台藩を相続した伊達斉邦の後見も務めた。他に佐倉藩主の堀田正愛が病気で政務が執れなくなると、その後見役も務めた。
 文化3年(1806年)、3,000石加封され、堅田藩1万3,000石となる。文化4年(1807年)、蝦夷地(現在の北海道)へのロシア人侵入を視察するため松前藩へ出立。文政9年(1826年)、下野国安蘇郡植野村(現在の栃木県佐野市、初代堅田藩主・堀田正高の旧領)への陣屋替えを命ぜられる。なお滋賀郡堀田領は引き続き支配するが、土豪堅田郷士が実質管轄下となる。文政12年(1829年)、3,000石加封され、佐野藩1万6,000石となる。天保3年(1832年)1月29日、致仕(退官)。五男の正衡が家督を継いだ。同年6月7日死去。

*堀田正敦チェックテスト

1. 佐野藩主である堀田正敦の幕府での役職は・・・若年寄
2. 寛政11年 大名旗本諸家の系図略歴の編纂がはじまります。正敦は編集総裁として携わり文化9年に完成します。この編纂されたものとは・・・寛政重修諸家譜
3. 正敦は ある動物の研究家としても知られています。何の動物でしょうか。・・・鳥類
4. ラランドの天文学書を天文方の(高橋至時)に渡しました。そのため彼は天文学をさらに深くすすめることが出来ました。

・ジョセフ=ジェローム・ルフランセ・ド・ラランド(Joseph-Jérôme Lefrançais de Lalande、1732年7月11日 – 1807年4月4日)はフランスの天文学者である。1795年、パリ天文台の台長になった。また、1795年から1800年までは、フランス経度局の責任者でもあった。1802年天文学の功績を表彰するラランド賞を設立した。

5. 正敦は 本草学者小野蘭山を医学館に招きました。その講義から生まれたのが(本草綱目啓蒙)である。

・小野 蘭山(おの らんざん、享保14年8月21日(1729年9月13日) - 文化7年3月2日(1810年4月5日))は、江戸時代の大本草学者。名は識博(もとひろ)、通称は喜内、字は以文、号は蘭山、朽匏子。京都出身。門弟に杉田玄白、木村兼葭堂、飯沼慾斎、谷文晁、桜田欽斎、水谷豊文、三谷公器、吉田立仙、山本盛備(大正年間の総理大臣山本権兵衛の養曽祖父)
 25歳で京都丸太町に私塾・衆芳軒を開塾、多くの門人を教えた。蘭山が研究した本草学は広く知られる事になり日本中から生徒が集まり千人を越える人間が巣立って行ったと言われている。ただ、塾を去って郷里に戻った後も本草学を続けた者は10人に1人もいない、という(『水火魚禽考諸』)。しかし、郷里に戻った門人と蘭山との書簡が数多く残り、手紙で教えを請い続けた弟子もいたようだ。天明8年1月30日(1788年3月7日)、蘭山60歳の時、天明の大火が発生。私塾・衆芳軒も大火にやかれ蘭山も門人の吉田立仙の家に避難。この大火で門弟達は散り散りとなり、しばらくの暇ができた蘭山は、自身の研究をまとめる著作の執筆をして過ごした。寛政11年(1799年)71歳の時、幕命により江戸に移り医学校教授方となる。享和元年(1801年) - 文化2年(1805年)にかけて、諸国をめぐり植物の採集。享和3年(1803年)75歳の時に研究をまとめた著書『本草綱目啓蒙』脱稿。本草1882種を書き表す大著で3年にかけて全48巻が刊行され、日本最大の本草学書になった(この著書はのちにシーボルトが手に入れ、蘭山を「日本のリンネ」と賞賛している)。