番町

<今日の江戸学トピック>
◆番町(ばんちょう)は、東京都千代田区の地域内区分の一つで、主に一番町から六番町までの町を指す。現在をみると、皇居より西に位置する領域。南の新宿通り、北の靖国通りに挟まれ、東端は半蔵濠から牛込見附、西端は東日本旅客鉄道中央本線が走る旧江戸城の外濠(跡)である。明治初期に四番町の大半が富士見町として独立し、昭和初期の街区改正によって九段(南北三・四丁目)が設定されて番町地域から分立した。山の手の代表的な住宅地の一つであり、靖国通り・二七通りおよび麹町通り以外には商店街はほとんど存在せず、都心部における高級住宅街の代表格であった。地域内には歴史ある名門学校が多い。現在は大邸宅はほとんど影をひそめ、広い敷地を利用したマンションとオフィス中心のビル街となっている。
 江戸時代をみると、旗本のうち、将軍を直接警護するものを大番組と呼び、大番組の住所があったことから番町と呼ばれた。大番組は設立当初、一番組から六番組まであり、これが現在も名目だけ一番町から六番町に引き継がれている。しかし江戸時代の大番組の組番号と、現在の町目の区画は一致しない。江戸時代の番町の区画は、通りに面して向かい合う二連一対の旗本屋敷の列を基準に設定されたものだからである。概念的にみると、江戸城の内堀に面する縦軸の番町として、千鳥ヶ淵に沿った南北に走る道(現青葉通り)を基準に一/二番町(新道一/二番町)が置かれた。次に江戸開府以前からの古道である、東西に走る麹町通り(新宿通り)を横軸にし、それに平行する道路を基準に、麹町通り側から北上して、裏/表二番町、裏/表六番町(表六番町は現在の二七通り沿い)、三番町(現在の靖国通り沿い)、表/裏四番町(靖国神社境内の北半分から富士見町一帯)と配置されていた。五番町だけは新道一番町の南側に続く半蔵壕に面した地区(現英国大使館とその裏側)とされ面積も狭い。西に連なる麹町通りの北側は、千鳥ヶ淵に連続する水面を埋め立てた谷間の低地(麹町谷町)を中心にして元園町とされているので、当初の五番町はその周辺まで含んでいたのかも知れない。

<番町チェック>
◎江戸時代の言葉から
 ・番町にいて番町知らず
 ・問わぬは恥ぞ番町の道
 ・番町で目あき目くらに道を聞き
 ・番町をさかなの下がるほど訪ね
1. 番町のおおよその範囲は、四谷門 - 市ヶ谷門 - (牛込門) - 田安門 - (半蔵門) - 四谷門に囲まれた範囲である。
2. 番町の切絵図の最初は → (吉文字屋)板
 *『江戸切絵図集成』(全6 巻 中央公論社千代田区立図書館所蔵)によると、
 ・吉文字屋板(きちもんじやばん)別名美濃屋板(みのやばん)。宝暦(1755)〜安永4年(1775) 初めて刊行された切絵図。 8図のみの刊行。
 ・近江屋板(おうみ や ばん)、別名近吾堂板(きんごどうばん)。弘化3年(1846)〜安政3年(1856)荒物商の近江屋吾平(ごへい)が刊行。 4色で色分けされ、実用面を重視。
 ・尾張屋板(おわりやばん)、別名金鱗堂板(きんりんどうばん)嘉永2年(1849)〜明治3年(1870)絵草子商の金鱗堂尾張屋清七が刊行。5色 分けされ、錦絵風の絵が入る鮮やかな切絵図。
 ・平野屋板(ひらの やばん)。嘉永5年(1852)〜嘉永6年(1853)ごろ? 正確で精密な独自の構成の切絵図。
 <豆知識> 切絵図の始まりは番町から
 江戸時代の番町は武家屋敷が立ち並び、人通りも少なく、「番町をさかなのさがる程尋ね」(道が分からず届けようとする魚が腐ってしまうほど尋ねまわったという意味)という川柳ができるくらい道が分かりにくくて有名でした。切絵図のはじまりと言われる吉文字屋板は「東都番町図(とうとばんちょうず)」から刊行が始まった。この地域の需要が特に高かったからだと考えられり。また、その後に刊行された近江屋板も、当時番町の近くで荒物商を営んでいた近江屋が、自分の店の付近の道が分かりにくいので、それを説明するために地図を作ったことが始まりだと言われている。(参考資料:『江戸図の歴史』築地書館より)
3. 道を尋ねられた盲人とは。・・・塙保己一
 *塙 保己一(はなわ ほきいち、延享3年5月5日(1746年6月23日) - 文政4年9月12日(1821年10月7日))は、江戸時代の国学者。失明後に辰之助(たつのすけ)と改める。雨富検校に入門してからは、千弥(せんや)、保木野一(ほきのいち)、保己一(ほきいち)と改名した。『群書類従』『続群書類従』の編纂者である。総検校。
4. 番方衆の居住地であった番町。五番方とは・・・大番、書院番小姓組、新番、新十人組
*五番方とは、江戸幕府の大番・書院番小姓組番・新番・小十人組の総称。
 ・大番は、江戸幕府の職名。老中に属して戦時にはいくさの先頭に立ち、平時には江戸城大坂城・京都二条城および江戸市中を交代で警備した。
 ・書院番は、江戸幕府の職名。若年寄に属し、江戸城の警護、将軍外出時の護衛などの任にあたった。初め4組、のち10組程度で、各組に番頭(ばんがしら)・組頭・組衆・与力・同心を置いた。
 ・小姓組とは、江戸幕府の職名。若年寄に属して、諸儀式に参与し、将軍の外出時の警護、市中の巡回などに当たった。番頭(ばんがしら)・組頭・組衆の三役からなり、50人を一組みとした。
 ・新番とは、江戸幕府の職名。江戸城内に交替で勤め、将軍出行のさいに先駆け・警衛をした役。近習番(きんじゅばん)。
 ・小十人組とは、江戸幕府常備軍事組織の一。若年寄に属し、戦時には将軍馬廻りの警固に当たり、平時には小十人番所に勤番し、将軍出行の際に先駆として供奉した。