来年の江戸検に向けて。

◆11月中旬から進めているが、今日の勉強は。
 ①現在のところ、まず本を読むことを中心に。
 ・日本の歴史(中公文庫)13巻から19巻を読み込んでいる。まず、通勤時間等中心に読み込んでいる。その日のうちに、帰宅後、その読み込んだページにマカーを引き、再チェックを行っている。現在17巻を読書中。来月からは分野別に乱読状態で本を読んでいこう。3月ぐらいまでには、200を超える本を読み込んでいきたい。
 ②過去問チェック。
 ・博覧強記に過去問を中心に書き込み作業。来月中旬ぐらいには整理したいと考えている。完了後、読書の再チェックを抜き書きして博覧強記に書き込み、幕末ノートの整理をしていこう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<今日の小池劇場>
小池都知事 “盛り土”で処分。元幹部「一方的」と反発。
 豊洲新市場に盛り土がされていなかった問題。東京都・小池百合子知事は岡田至元市場長(東京都歴史文化財団副理事長)、中西充元市場長(副知事)、塚本直之元市場長(東京動物園協会理事長)、塩見清仁元管理部長(五輪パラリンピック準備局長)、宮良眞元新市場整備部長(八重洲地下街)の減給処分を発表。処分対象は当時の幹部18人。小池知事は元市場長の2人について、都関連団体からの退任を促した。小池知事が東京都庁で会見し、「行政の長としてけじめをつける。地方公務員法にのっとった形での処分。私の着任前の事件だが、給与を3か月間5分の1減額することとする」、中西副知事は「誠意を持って対応したい」、岡田元市場長は「自主返納に応じていく」と述べた。宮良元新市場整備部長は「一方的に私に不利益な処分となっている」と反論。
◆東京を国際金融都市に。
 国際金融都市の実現に向けて、小池知事や専門家が初めての会合を開いた。小池知事は「東京をかつてのようにアジアナンバーワンの国際金融市場として復活させることを目標にしている」と述べた。今後の論点は税制や業界の慣行・規制の見直し、新たな金融サービスの育成などを取り上げていく。来年11月に最終的な提言が取りまとめられる。
小池都知事 予算編成の「政党復活」廃止へ。
 東京都の小池知事は就任後初めて臨む新年度予算の編成作業について、都の予算原案に盛り込まれなかった事業を都議会からの要望を受けて復活させる「政党復活」を廃止する考えを明らかにした。小池知事はその上で、原案をまとめる前に各種団体などから意見を聞く機会を設け都議会の要望も受け付けるとし、さらにこうした編成過程のいち部を公開するなどして透明化を図りたいとしている。これについて都議会自民党は「政党復活」は知事と議会の意思を予算にバランスよく反映させることを目的に長年続けられてきた仕組みで、事前に何の説明もなく廃止することは議会軽視と言わざるをえないとして、小池知事に抗議文を提出した。

 

絵島生島事件(再掲)

◆絵島生島事件は、正徳4年(1714)に起きた。正月14日、7代将軍徳川家継生母月光院に仕えるお年寄り絵島は増上寺の前将軍家宣の文昭院霊廟)に代参した。なお、家宣は正徳2年10月14日に亡くなっていたので、14日は月命日であったわけです。本来は月光院が参詣するところ、月光院が参詣できないため、急遽絵島が代参することになった。絵島は、早速、呉服所筆頭の後藤縫殿助を通して木挽町山村座2階桟敷を借りきらせました。奥女中たちが代参後に芝居見物をすることは、公式には禁止されていましたが、綱吉の時代から公然の秘密として黙認されていました。また、もう一人の年寄宮地は、寛永寺への代参を終えると、打ち合わせ通り山村座で合流した。幕間には、座元の山村長太夫狂言作者の中村清五郎が挨拶に顔をだし、主役の生島新五郎も接待に勤めました。
 気分を良くした絵島一行はどんちゃん騒ぎで、観客のヒンシュクを買う始末。この時の話には、いろいろな話がある。絵島がこぼしたお酒が1階にいた薩摩藩士にかかり大騒ぎになり同行した徒目付が薩摩藩士をなだめておさまったとか、どんちゃん騒ぎを同行した徒目付が注意し絵島が気分を害したという話もある。また、絵島と生島新五郎が座元の住まいで楽しんだという話もある。こうした乱痴気騒ぎの結果、当然ながら江戸城に帰り着く時間は遅くなった。当時の大奥では多かったようである。江戸城の平川門と御錠口の閉門時間は暮れ六つ。それは無事通過できたものの、七つ口は、名前の通り七つ(現在の午後4時ごろ)には閉まります。それは厳しく閉じられていた。そのことがあって20日後の2月2日に、絵島は宮路とともに上野寛永寺での謹慎を申し渡された。そのほか、一緒に行った奥女中たちも同様な処分を受けた。そして、評定所や江戸中町奉行坪内定鑑・大目付仙石久尚・目付稲生正武らによって関係者が徹底的に調べられた。奥女中だけでなく、芝居小屋関係者も処罰を受け、中村清五郎や生島新五郎も入牢を申し付けられた。絵島は、3月4日に評定所に呼び出され判決を言い渡された。評定所から絵島に下された判決は死一等を減じての遠島でした。連座して、旗本であった絵島の兄の白井平右衛門は武士であるのにもかかわらず切腹ではなく斬首された。また、弟の豊島平八郎は追放となった。大奥御殿医の奥山交竹院は遠島、その弟の水戸藩士奥山喜内は水戸藩に渡され死罪となった。絵島の遊び相手とみなされた生島新五郎は三宅島への遠島、山村座座元の五代目山村長太夫伊豆大島への遠島。このほか、幕府呉服師の後藤縫殿助の手代清助、材木商栂屋善六も遠島とされ、合計で1500人もの人が罰せられた。山村座も座元の遠島に加えてお取り潰しということになりました。また、この事件の取り調べの中で、芝居小屋にも風紀上問題があるということで、2階、3階を作ってはならないこと、桟敷にはすだれなどを垂らさないこと、桟敷から楽屋や座元の居宅などに間道を作ってはいけないこと、役者や座元などが客席に出て酒宴をすることななどの禁止が定められました。
 絵島は、月光院の嘆願により、さらに罪一等を減じて高遠藩内藤清枚にお預けとなった。月光院の精一杯の働きかけでした。絵島は、33歳で高遠に流され、亡くなる61歳までずっと幽閉されていた。絵島が幽閉された「絵島囲み屋敷」が伊那市高遠に復元されている。
 大奥の腐敗は、家宣・家継の時代だけ目立つものではありませんでした。しかし、なぜ絵島の時だけ、こんなに厳しい処分がなされたのか。しかも、将軍の生母で大奥で絶大な権力をもっていた月光院付きのお年寄りである絵島がである。お年寄と言えば、表の老中に匹敵する重職ですので、通常であれば、握りつぶされてしまうのが普通ではないでしょうか。これについては、その当時の権力抗争を背景として考えざるをえない。当時の大奥には、7代将軍家継の生母月光院を中心とする勢力と前将軍家宣の正室天英院を中心とする勢力とがありました。月光院は将軍家継の生母であるので、月光院の方が優勢だったでしょう。こうした情況の中で起きた絵島の乱痴気騒ぎは、大奥内では天英院側にとって、勢力を挽回するための絶好の機会だったでしょう。また、表では、侍講新井白石側用人間部詮房が力を持っていた。しかし、家宣の時代と違い幼少の家継が将軍であったため。権力から遠ざけられていた老中や役人たちの抵抗が強くなってきていた時期でもありました。しかし、月光院や間部詮房を直接攻撃することはできませんでした。そうした中で起きた、絵島の事件は、表の譜代名門出身の老中たちにとっても、間部詮房新井白石コンビに対する痛打になると考えたのではないでしょうか。 そこで、詮議が非常に厳しくなったと思われます。間部詮房新井白石ともに、下手に絵島を弁護すると、矛先が自分たちに向かうことから、絵島擁護に動けなったのではないでしょうか。さらに、新井白石自身は、大奥の腐敗を苦々しく見ていたという説もあります。そのため、家継体制継続をめざすという点では月光院とめざすものが同じだったでしょうが、絵島の行状を弁護する気は起きなかったのではないでしょうか。白石の「折りたく柴の記」には、絵島事件に触れた箇所がないことが、白石の気持ちをあらわしているかもしれません。このように考えると、絵島は、江戸城内の大奥や表の政治闘争の犠牲になったといえるかもしれません。
<参考> 日本の歴史〈17〉町人の実力 (中公文庫)

再び、佐久間象山について

<今日の江戸学トピック>
佐久間象山・・・幕末、一貫して開国論を唱え続けた天才・自信家
 佐久間象山は元治元年(1864)7月11日夕刻、京都三条木屋町で刺客、肥後藩士・河上彦斎(幕末の四大人斬りの一人)に暗殺された。享年54歳だった。象山は当時でも稀な大自信家だった。佐久間象山の塾で教えを受けた吉田松陰は、兄の杉梅太郎に送った手紙の中で、象山を「慷慨気節あり、学問あり、識見あり」と称え、「当今の豪傑、江戸の第一人者」と記し、山鹿素水・安積艮斎らをも凌ぎ「江戸で彼にかなう者はありますまい」とまで書いている。象山には“大法螺(おおぼら)吹き”とか“山師”といった批判もあった反面、非常に見識のあった人物だ。ペリーの来航を機に攘夷の虚しさを認識し、これ以後、開国策を終始一貫して全く変えないで、あの時代に主張したのは象山だけである。
「余、年二十以後、すなわち匹夫にして一国に繋ることあるを知る。三十以後、すなわち天下に繋ることあるを知る。四十以後、すなわち五世界に繋ることあるを知る」これは、20代は松代藩、つまり藩単位でものを考えていた。30歳を過ぎると、天下=日本の問題としてすべてを考えるようになってきた。40歳以降になると、全世界というものを考えるようになってきた−ということであり、勉強すればするほど問題意識が広がるし、それにつれて自分の使命感も重くなってきた心境を表現しているであろう。
 勝海舟の妹にあたる妻の順子に、象山自作のカメラのシャッターを押させて撮った晩年の象山の写真をみると、象山は西洋人ではないかと思われるような、ちょっと変わった顔をしている。安政元年正月、ペリーが和親条約締結のため二度目に日本に来たとき、象山は横浜で応接所の警護の任にあたっていて、たまたま、ペリーが松代藩の陣屋の前を通り、軍議役として控えていた象山に丁寧に一礼したことがあったそうだ。日本人でペリーから会釈されたのは象山だけだというので、当時、語り草になった。これは象山の風采が堂々としていて、当時の日本人としては異相の人だったことを物語るエピソードのようだ。
 象山は文化8年(1811)、信州松代藩の下級武士の家に生まれた。彼は誰に教わることもなく、3歳にして漢字を覚えた。早くから彼の才能に目をつけた城主、真田幸貫の引き立てで学問などに修養。天保12年(1841)幸貫が幕府の老中に就任するや、翌年、彼を海防係の顧問に抜擢した。象山32歳のことだ。それまで漢学に名をなしていた象山が、洋学に踏み入ったのもこの幸貫の信頼に報いるためだった。優れた漢学者としての“顔”に加え、後半生、洋学に心血を注いだ象山は、それがもたらした科学を西洋の芸術と称え、これと儒教の道徳との融合を自分の人生と学問の究極と考えていた。
 幕末、京都における象山の立場はかなり自由なものだった。彼は幕府の扶持を貰いながら、山階宮一橋慶喜からの招請に応じ西洋事情を説くなど、その諮問に応じ、また朝廷に対する啓蒙活動を続けていた。ただ彼が日本の将来を考えて飛び回り、活躍すればするほど、その死期が刻々と近づきつつあった。彼のその風采ともあいまって、京の街では目立ち過ぎた。象山を暗殺した河上彦斎は、幕末の暗殺常習者の中でも珍しく教養のある方だったが、この後、彼は人が変わったように暗殺稼業をやめた。斬った瞬間、斬ったはずの象山から異様な人間的迫力が殺到してきて、彼ほどの手だれが、身がすくみ、心が萎え、数日の間、言い知れない自己嫌悪に陥ったといわれている。
(参考資料)奈良本辰也「歴史に学ぶ」、日本史探訪/開国か攘夷か「佐久間象山 和魂洋才、開国論の兵学者」(奈良本辰也綱淵謙錠)、奈良本辰也「不惜身命」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、司馬遼太郎司馬遼太郎が考えたこと4」