秩父夜祭

世界文化遺産への登録が決定した日本の「山・鉾・屋台」行事。なかでも三大曳山祭といえば、京都の祇園祭・岐阜の高山祭・埼玉の秩父夜祭。寛文年間(1661〜72)に曳山が始まったという秩父夜祭の山車を展示する秩父まつり会館。山車行列と冬の花火が有名な本祭は今日2日(金)からスター。国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録された「秩父夜祭」が2日、埼玉県秩父市で行われた。県内外から多数の観光客が訪れ、緻密な彫刻を施した極彩色の山車が引き回される様子に、大きな歓声が上がった。「日本三大曳山祭」の一つで、300年以上の歴史を誇る秩父神社例大祭。昨日は前夜祭で、高さ約6.5メートル、重さ約15トンの屋台3台が「ほーりゃーい」の掛け声とともに、市内を豪快に駆け巡った。きらびやかな屋台歌舞伎が演じられ、さらに打ち上げ花火が夜空を彩った。

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<今日の小池劇場>
◆「失礼じゃないですか」 小池知事が記者の質問に“いら立ち”。
 東京五輪の競技会場見直しについて、4者協議で小池知事は横浜市から「ぜひやりたいという言葉を頂いている」と発言している。先月25日に横浜市は都に対し、「競技団体とIOCの意向が一致していることが重要」と文書で伝えていた。この文書を巡り、小池知事は、文書をきのう初めて見たと明かした。その2時間後には森会長が、私が目に入れたのは25日だったと述べた。小池知事は「会場が有明となれば大山鳴動して鼠一匹ではないか」という記者の質問に対し、それは失礼じゃないかと顔色を変え、頭の黒い鼠がたくさんいることがわかったじゃないかと返した。小池知事は改めてクリスマス前までに結論を出すと強調した。

細川忠興

<今日の江戸学トピック>
◆正保2年(1645)12月2日、細川忠興が亡くなりました。83歳。細川忠興は、父幽斎とともに織田信長豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは東軍につき、豊前豊後の大守となり、豊前中津藩(大分県)藩主(30万石)となったのち、豊前小倉藩(福岡県)にうつりました。細川忠興とは戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て、豊前小倉藩初代藩主。肥後細川家初代。足利氏の支流・細川氏の出身である。正室明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)。室町幕府将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復した。足利義昭織田信長豊臣秀吉徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父・幽斎と同じく、教養人・茶人(細川三斎(さんさい))としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。
 徳川家康からの「みかたにつけば丹後の隣国である但馬一国(10万石)を進ぜよう」という言を受け慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。このとき、豊臣恩顧の有力大名である上、父と正室が在京していたため、その去就が注目されたが、東軍に入ることをいち早く表明したため、他の豊臣恩顧の大名に影響を与えたと言われている。大坂城内の玉造の細川屋敷にいた妻の玉子(ガラシャ)は西軍の襲撃を受け、人質となることを拒んで自害を余儀なくされた。護衛であったはずの稲富祐直は包囲部隊に弟子が多数居た為逃げるように懇願され、ガラシャを置き去りにして逃亡した。忠興は後に追討をかけるが家康が家来として召し抱えたため断念した。また、この事件に際して忠興は嫡男・忠隆を廃嫡している。
 また、弟の幸隆と父の幽斎は忠興の留守をよく守り、丹後田辺城に籠城したが(田辺城の戦い)、朝廷からの勅命により関ヶ原の戦いの前に開城し、敵将・前田茂勝の丹波亀山城に入った。豊後国では飛び地の杵築の杵築城が旧領主(元豊後国主)である大友吉統に攻撃されたが、松井康之と有吉立行が防戦に尽くし、やがて救援に駆けつけた黒田如水により石垣原の戦いで吉統は打ち破られた。9月15日の関ヶ原本戦で忠興は、黒田長政らと共に石田三成の本隊と激闘を演じ、首級を136上げたとされる。
 徳川家康重臣からの進言により但馬一国の加増は実行しなかったものの、慶長5年(1600年)の論功行賞で丹後12万石から豊前国中津33万9,000石に国替のうえ加増した。豊後杵築6万石は、そのまま細川領とされたので39万9,000石の大名となった。豊前国では前領主である黒田長政によって年貢が持ち去られており、返還をめぐって筑前商人を抑留するなど関係がこじれている。慶長7年(1602年)より、小城であった小倉城を九州の要とすべく大規模改修に取り掛かる。なお、長政が移った筑前国の年貢も小早川秀秋によって持ち去られている。その後中津城から完成した小倉城に藩庁を移し、小倉藩初代藩主となる。また、幸隆を竜王城の城主として同じく弟の孝之を香春岳城の城主としてさらにまた重臣の松井康之を杵築城の城主として配し、領内の守りを固めた。
 慶長16年(1611年)3月24日、伏見城徳川家康のもとへ祗候するために上洛をした時に病に倒れた。この時、忠興に癪の持病があることを知っていた家康は、本多正純を通して漢方薬の万病円を忠興に遣わしている。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣でも参戦する。戦後、松平の苗字の下賜を辞退する。元和6年(1620年)、病気のため、三男の忠利に家督を譲って隠居する。この頃、出家して三斎宗立と名乗った。寛永9年(1632年)、忠利が豊前小倉40万石から肥後熊本54万石の領主として加増・移封されると忠利に44万5,000石を残し、自らは八代城に入り[12]、9万5,000石を隠居領とし北の丸を隠居所(本丸には忠興四男の立孝を入れる)とした。この時、忠興に従って八代郡高田郷に移った上野喜蔵と長男の忠兵衛によって高田焼が創始された。忠興は立孝に自分の隠居領9万5,000石を継がせて立藩させることを強く望んでいたようであるが[13]、正保2年(1645年)閏5月に立孝が早世し、忠興も同年12月2日に死去したため、叶わなかった。臨終の際には「皆共が忠義 戦場が恋しきぞ」と述べており、最後まで武将としての心を忘れていなかった。享年83。