前に進もう。 そして八重は?「会津家訓十五箇条」が会津を悲劇に導く。

◎日一日と、時は前に進む。その中で、努力するのか、埋没するのか。例え、結果が出なくとも、前向きに進まざる得ない。同じ姿勢で努力を積み重ね前に進むしかない。常にこの瞬間で終わり、明日また始まる。

◎今日の「八重の桜」は松平容保が、西郷頼母重臣の反対にもかかわらず、京都守護職を拝命を受ける決意をすることになる。会津が戦争に巻き込まれ、賊軍として、戦うことになる大きな要因となる。幕府の力が日に日に落ちるなか、京では不逞浪士たちの天誅(てんちゅう)騒ぎが続き、それまで都の治安を担っていた京都所司代京都町奉行では抑えることができなくなっていました。そこで幕府の威信をかけて新設されたのが「京都守護職」。ドラマの中で八重も勘違いしたとおり、名前だけ聞くと名誉な職のようですが、その実は、困難が目に見えた損な役割でした。しかも京は、会津とは気候も文化も異なる地。純朴で生真面目な山国の藩士たちが、気位の高い公家たちと付き合いながら、西国諸藩の武士と渡り合うのは至難の技です。さらに藩の財政は相次ぐ天災や江戸湾の海防警備などで火の車。故郷からあまりに遠い京への出兵ははなから無謀といえるものでした。京都守護職の拝命。それは会津藩を悲劇へと導くことになる、重い、重い決断でした。なぜ会津の滅亡を覚悟してまで容保は引き受けたのか。それは会津藩の歴史に物語る。会津松平家の歴史は、信濃高遠藩藩主・保科正之(1611–72年)が、1643(寛永20)年に会津藩藩主の座についたときから始まります。正之は徳川家康の孫で、2代将軍秀忠の息子。母は正室の江ではなく、秀忠の乳母・大姥局(おおばのつぼね)の侍女・志津でした。恐妻家の秀忠は江を恐れて正式には認知せず、正之を武田信玄の娘・見性院(けんしょういん)のもとにかくまいます。その後、正之は7歳のときに高遠藩保科家に預けられ、後に養子となり高遠藩3万石を継ぎました。江が産んだ子で3代将軍となった家光は、この異母弟の存在を知るや、山形藩20万石、その後会津藩23万石と南山御蔵入5万石を私領同然に預け、実質28万石の領主に引き立てました。当時、御三家の水戸藩が28万石であることを考えると、いかに正之に目を掛けたかがわかります。家光は聡明な正之をかわいがり、その死に際には枕もとへ呼び寄せて「徳川宗家を頼む」と言い残したとも伝わります。
 家光の死後、正之は遺言どおり、4代将軍家綱の後見として幕政を支えました。「松平」の姓と葵紋が与えられましたが、正之は自分を育ててくれた保科家への恩から、これを固辞。松平を名乗るようになったのは3代正容(まさかた)からです。徳川家への恩義を終生忘れることがなかった正之は、世を去る4年前(1668年)に「会津家訓十五箇条」を残しました。正之の霊号「土津(はにつ)」にちなんだ「土津公御家訓」としても知られている。これは、その第一条はドラマでも登場しましたが、「大君(たいくん)の義 一心大切に忠勤を存ずべし 列国の例をもって自ら処(お)るべからず…」、つまり「将軍家には忠勤を励むこと。他の藩を見て判断するな。もし将軍家を裏切る藩主があればそれは私の子孫ではないから、家臣はそれに従ってはならない」という徳川家への絶対的忠節を命ずるもの。ふつう家訓といえば、「家を守れ」「藩主に従え」といった内容が通例。藩主を見捨ててまで徳川家への忠誠を尽くせというのは異例。まさに、徳川幕府の未来永劫の安泰を願ってつくったであろうこの家訓が、200年後、結果的に会津を滅ぼす要因となることなど、このときの正之にどうして想像できるものではない。
 第9代容保は、先代の8代容敬(かたたか)の甥で、高須藩松平家から養子に入り、17歳で藩主の座を受け継ぐ。他家から入った者として、身も心も会津の人間となり、頑固な気質で知られる会津の人々を束ねていくために相当な努力をした。京都守護職就任の要請があったのは、藩主となってようやく10年がたったときでした。幾度も辞退し、家臣たちからも大反対にあうが、松平春嶽から「会津家訓十五箇条」を持ち出された容保は断るすべを失ってしまう。初代正之の心情をくみ、その思いを受け継いでこそ、真の会津藩藩主たりうると考えたのかもしれません。和歌の名手としても知られる容保であるが、このとき迷う心を歌い、実の父・義建に送っている。「行くも憂(う)し止まるもつらし如何にせん 君と父とを思ふこころを」義建からの返歌は、「父の名はよし立てずとも君がため 勲(いさを)あらわせ九重のうち」容保の心は決まった。その年1862(文久2)年の12月、容保は千人の会津藩士を連れ、京に向け出立した。


(2月10日生まれの偉人)
◆平塚 らいてう(ひらつか らいちょう、1886年明治19年)2月10日 - 1971年(昭和46年)5月24日は、日本の思想家・評論家・作家・フェミニスト、戦前と戦後に亘る女性解放運動・婦人運動の指導者。平塚は、特に、大正から昭和にかけ「婦人参政権」の獲得に奔走したことで知られる。結局、その実現は、軍国主義を突き進んだ日本を倒した連合国軍の占領政策実施機関GHQによる戦後日本の改革を待たざるを得なかったが、戦後は、婦人運動、反戦平和運動を推進した。また、雑誌『青鞜』の「元祖、女性 は太陽であった」の言葉でも知られる。なお、平塚の氏名の表記は一定せず、漢字で雷鳥と書く場合や、塩原事件で有名になったために、本名の平塚 明(ひらつか はる)や平塚明子で評論の俎上に上がることもある。