今日もすでに週半ば。不思議?なぜ外国人向けの東京オリンピック招致ポスターがないの?

 2020年にレスリングがオリンピック種目から見直しされる記事が話題になっていたが、東京都が招致している年である。IOC委員の視察があると確か猪瀬知事が記者会見で話していたが、以前から気になっていたことがある。なぜ、英字の東京オリンピック招致のポスターがないのか。数年前、イギリスの新聞で東京は第一の観光スポットになったという記事を読んだことがあるが、せめて東京の観光スポットに、「2020年東京オリンピックパラリンピック」招致に向けて、外国人向けの英字のポスターや英字の横断幕があっても良いのではないか。東京だけでなく、日本全国の支持を得ると同時に、諸外国にもPRすることも重要ではないかと思う。

  
(2月13日生まれの偉人)
◆安岡 正篤(やすおかまさひろ、1898年(明治31年)2月13日-1983年(昭和58年)12月13日)は陽明学者・思想家。
 大学卒業後に文部省に入省するも半年で辞し、「東洋思想研究所」を設立、当時の大正デモクラシーに対して伝統的日本主義を主張した。拓殖大学東洋思想講座講師をする傍ら『日本精神の研究』『天子論及官吏論』などの著作を発表し、一部華族や軍人などに心酔者を出した。1927年に酒井忠正の援助により「金鶏学院」を設立し、1931年には三井や住友などの財閥の出資により埼玉県に「日本農士学校」創設し、教化運動に乗り出した。金鶏学院は軍部や官界・財界に支持者を広げて行き、1932年には「日本主義に基づいた国政改革を目指す」として、酒井や後藤文夫、近衛文麿らとともに「国維会」を設立し、新官僚の本山となった。同団体から、斉藤や岡田両内閣に、後藤や吉田茂(後の首相とは別人で同姓同名の厚相・軍需相)、廣田弘毅ら会員が入閣したことで、世間の注目も集まったが、一方で政界の黒幕的な見方も強まったため、2年後には解散に追い込まれる。
 その間も金鶏学院などを通じた教化活動は続けられ、「二・二六事件の首謀者西田税らに影響を与えた一人」とも言われる。北一輝大川周明猶存社のメンバーでもあった。年上である八代六郎(元海軍大将)、山本五十六、更には中華民国総統蒋介石などとも親交があり、第二次世界大戦中には大東亜省顧問として外交政策などに関わった。敗戦後に、かつて安岡が創設した各団体や学校は連合国軍最高司令官総司令部により解散を命じられ財産は没収、安岡自身も大東亜省奉職を理由に公職追放される。1949年に「師友会」(後の全国師友協会)を結成、機関紙『師と友』の発行による次代の指導者の育成や、全国各地を巡っての講演、更にはラジオによる講話などを通じた東洋古典思想の普及活動を行った。一方で政財界とのパイプは保ち続け、自民党政治家のアドバイザーとして主に東洋宰相学、帝王学を説き、彼らの「精神的指導者」「陰の御意見番」「首相指南役」の位置にあった他、1958年には安倍源基らとともに「新日本協議会」を結成、安保改定運動や改憲運動などに関わった。東洋古典の研究と人材育成に尽力する一方で、「体制派右翼」の長老としても政財官界に影響力を持ち続けた。また、「平成」の元号の発案者と言われている(1990年に竹下登が記者会見で示唆)。「全国師友協会」は遺言もあって解散したが、各地域の支部がそれぞれ独立した団体として活動を続け、その思想を継承している。安岡には政界だけでなく、財界にも多くの心酔者がおり、三菱グループ近鉄グループ住友グループ東京電力など多くの財界人をも指南していたとされる。終戦時、昭和天皇自身によるラジオ放送の終戦詔書発表(玉音放送)に加筆し原稿を完成させたことから皇室からも厚い信頼を受けていた。数々の伝説を残し、政界・財界・皇室までもが安岡を頼りにしていたことから「昭和最大の黒幕」と評される。
・私の印象に残る名言
 「最後まであきらめなかった人間が、成功しているのである。」
 「人間は学び続けなければならない。学ぶことをやめたら、人間でなくなる。」
 「人間は、先ず自分を責むべきであって、世の中や時代を責むべきではない。」
・「安岡正篤一日一言」より、思考の三原則
 安岡氏は、物事を考えるときに、3つの原則があると言っている。私は物事を、特に難しい問題を考えるときには、いつも三つの原則に依る様に努めている。
 第一は、目先に捉われないで、出来るだけ長い目で見ること。
 第二は、物事の一面に捉われないで、出来るだけ多面的に、出来れば全面的に見ること。
 第三に、何事によらず枝葉末節に捉われず、根本的に考える。
 物事によっては、その結論が全く正反対ということになることが少なくない。我々は難しい問題にぶつかる度に此の心掛を忘れてはならぬ。