いよいよ9月を迎える。

◆今日は日曜日。実家でいつも通り週末介護。猛暑の中、草取りに追われる。自治会の夏祭りに母親を連れて行く。周りから元気か超えをかけられる喜んでした。
 明日から上半期の決算に向けて仕事に頑張っていこう。

(今日の出来事)
・九州で非常に激しい雨。浸水や土砂災害に危険。
関東大地震から90年、きょう「防災の日南海トラフ地震想定し 初訓練。
宮崎駿監督が引退。「『風立ちぬ』を最後に。

(9月月1日生まれの偉人)
◆新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、1862年9月1日(文久2年8月8日) - 1933年(昭和8年)10月15日)は、日本の農学者・教育者・倫理哲学者。国際連盟事務次長も務め、著書 Bushido: The Soul of Japan(『武士道』http://shop.chichi.co.jp/item_detail.command?item_cd=966)は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られる。東京女子大学初代学長。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今から百年前の1900年前後には、日本人による英文で書かれた名著が出現している。新渡戸稲造「武士道」これらの本はそれぞれその時代に大きな影響を与え、その後も日本についての紹介書として長く読まれ続けている。また新渡戸の「武士道」は、日露戦争に際してアメリカのルーズベルト大統領がこの書を高く評価していたことで、日露の仲介役を買って出てくれた。

<新渡戸 稲造にみる『武士道』とは>
 1.武士道とは何か
 「武士道」を一言で表現するならば、「騎士道の規律」であり、「高貴な身分に付随する義務」と言える。武士が守るべきものであり、道徳の作法である。「武士道」は成文化された法律ではない。その多くは、有名な武士の手による格言で示されていたり、長い歴史を経て口伝で伝えられてきた。それだけに、「武士道」は実際の武士の行動に大きな拘束力を持ち、人々の心に深く大きく刻まれ、やがて一つの「道徳」を作り出していった。ある有能な武士が一人で考え出したものではなく、ある卓抜した武士の生涯を投影したものでもない。長い時を経て、武士達が作り出してきた産物なのである。
 武士道がいつ確立されたのか、時と場所を明確に指定することはできないが、武士道が自覚されたのは封建制の時代であった。つまり、封建制の始まりと武士道の始まりは一致すると考えられる。日本で封建制が確立されたのは、源頼朝武家政権を開いた時期であるが、封建的な社会的要素はそれ以前から存在していた。よって、武士道の要素も同様に、それ以前から存在していたと考えられる。武士道の源流を生み出した階級「侍」は、戦闘によってその特権的な地位を得た。長い戦いの歴史の中で、弱い者は淘汰され、強い者が生き残った。彼らが地位と名誉を獲得し、それに伴う義務を帯びるようになると、彼らに共通した行動規律が必要になってきた。その原点は、戦闘における「フェア・プレイ」である。子供じみた幼稚な考えであると、大人は笑うかもしれないが、これこそ壮大な倫理体系の「かなめの石」であろう。
 戦闘は野蛮で残虐な行為を含んでいるが、「臆病者」「卑怯者」という言葉は、少年のように健全で単純な性質の人間にとっては、この上ない侮辱であった。少年達はこの観念をよりどころとして、人生を歩み始めるのである。武士道も同様であった。しかし、時代が変化するに従って彼らの行動は、より高次の権威と、より道理にかなった判断に基づいたものを求められるようになった。そのため、武士道の源流は戦闘のみならず、いくつかの拠り所を持っていたのである。
2.武士道の源
 武士道の拠り所の一つは仏教である。仏教は、運命に対する信頼、不可避なものへの静かな服従、禁欲的な平静さ、生への侮蔑と死に対する親近感を与えた。
 もう一つは神道である。神道は、主君に対する忠誠、先祖への崇敬、孝心などをもたらした。
 道徳的な教義に関しては、儒教が豊かな源泉となった。孔子の政治道徳の格言の数々は、支配階級であった武士にとってふさわしいものであり、不可欠なものであった。
 次いで、孟子の思想も大きな影響を及ぼした。その人民主権的な理論は、思いやりのある武士たちに特に好まれた。孟子の理論は既存の社会秩序の破壊を招くものであるとして、その書物は長い間禁書とされてきたが、この言葉と思想は武士の心の中に永遠に住みつくようになった。
 「論語読みの論語知らず」という言葉がある。孔子の言葉を振り回すだけの人を嘲っているものである。武士道では、知性とは道徳的感情に従うものであると考えられていた。つまり、知識とは、人生における知識適用行為と同一のものなのである。知識とは、本来は知恵を得るための手段なのである。どんなに豊富な知識を持っていようとも、それが彼の行動に結びつかなければ、何の意味もないものであった。この思想は、中国の思想家・王陽明が何度も説いた「知行合一」の精神に詳しく解説されている。
 このように、武士道の源泉となったものはいくつか存在するが、武士道が吸収したものはわりと少なく、単純なものであった。武士の先祖達は、健全ではあっても洗練されているとは言いがたい気質の持ち主であったが、彼らは上記の思想や断片的な教訓を糧として彼らの精神に取り込み、それぞれの時代に要請された刺激に応じて、独得の「男らしさ」の型を作りあげていったのである。
3.義
 「義」とは、サムライの中でも最も厳しい規律である。裏取引や不正行為は、武士道が最も忌み嫌うものである。幕末の尊攘派の武士・真木和泉守(まき いずみのかみ:筑後久留米水天宮の祠官であったが、尊王攘夷論の影響を受け、脱藩して尊攘活動の指導者となる。蛤御門の変に敗れて自刃)は、義について以下のように語っている。
 「士の重んずることは節義なり。節義はたとへていはば、人の体に骨ある如し。(中略)されば人は才能ありても学問ありても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば不骨不調法にても士たるだけのことには事かかぬなり。」
 また、孟子は「仁は人の安宅なり、義は人の正路なり」と言った。つまり「義」とは、人が歩むべき正しい、真っ直ぐな、狭い道なのである。封建制の末期、長く続いた泰平の世が武士に余暇をもたらし、悪辣な陰謀とまっかな嘘がまかり通っていた時代に、主君の仇を報じた47人の侍がいた。私たちが受けた大衆教育では、彼らは義士であり、その素直で正直で男らしい徳行は最も光輝く宝の珠であった。
 しかし、「義」はしばしば歪曲されて大衆に受け入れられた。それは「義理」という。「義理」とは「正義の道理」なのであるが、それは人間社会が作り上げた産物といえるだろう。人間が作り上げた慣習の前に、自然な情愛が引っ込まなければならない社会で生まれるものが、義理だと思うのである。この人為性のために、「義理」は時代と共にあれこれと物事を説明し、ある行為を是認するために用いられた。人間の自然な感情に反する行為でも、それを社会が求めているのならば、その行為を正当化する道具として「義理」があらゆる場所で用いられたのである。もし「武士道」が、鋭敏で正当な勇気と、果敢と忍耐の感性を持っていなかったとすれば、「義理」は臆病の温床に成り下がっていただろう。
4.勇
 孔子論語の中で「義を見てせざるは勇なきなり」と言っている。肯定的に言い換えると「勇気とは正しいことをすることである」となる。つまり、「勇」は「義」によって発動されるものである。水戸光圀(黄門)は、こう述べている。
「一命を軽んずるは士の職分なれば、さして珍しからざる事にて候、血気の勇は盗賊も之を致すものなり。侍の侍たる所以は其場所を退いて忠節に成る事もあり。其場所にて討死して忠節に成る事もあり。之を死すべき時に死し、生くべき時に生くといふなり。」
 つまり、あらゆる危険を冒して死地に飛び込むだけでは「匹夫の勇」であり、武士に求められる「大義の勇」とは別物なのである。
 勇とは、心の穏やかな平静さによって表現される。勇猛果敢な行為が動的表現であるとすれば、落ち着きが静的表現となる。真に勇気のある人は、常に落ち着いており、何事によっても心の平静さを失うことはない。危険や死を目前にしても平静さを保つ人、詩を吟じる人は尊敬される。その心の広さ(余裕という)が、その人の器の大きさなのである。優れた武将として名高い太田道灌(おおた どうかん:室町時代の関東の武将。主家である扇ヶ谷上杉家を支えて武威を奮った。)は、讒言によって暗殺された時も、槍を突き刺した刺客が投げかけた上の句を受けて、息も絶え絶えの状態で下の句を続けたという挿話がよく知られている。
 同様の例は他にもある。戦国時代、武田信玄上杉謙信という二人の戦国大名が激しく争っていた。ある時、他国が信玄の領地に塩が入らないように経済封鎖を行い、信玄が窮地に陥った。この信玄を救ったのが、宿敵であるはずの謙信であった。彼は「貴殿と争うのは弓矢であって、米塩ではない。今後は我が国から塩を取り給え。」と手紙を寄せ、自国で取れた塩を商人の手によって、信玄の領地にもたらしたのである。 「勇」がこの段階まで高まると、価値ある人物のみを平時に友とし、そのような人物を戦時の敵として求めるのである。「勇」には、相手と競い合うようスポーツのような要素を含んでいる。そのため、合戦とは単なる凄惨な殺し合いではなく、命を懸けた競争のような要素を含んでおり、戦の最中に歌合戦を始めたり、当意即妙な応対を讃えるなど、凡人には理解しがたい知的な勝負でもあった。
5.仁
 「仁」とは、思いやりの心、憐憫の心である。それは「愛」「寛容」「同情」という言葉でも置き換えられるものである。「仁」は人間の徳の中でも至高のものである。孟子は「不仁にして国を得る者は之有り。不仁にして天下を得る者は未だ之有らざるなり」と言い、「仁」が王者の徳として必要不可欠なものであることを説いた。
 「仁」は優しい母のような徳である。だから、人は情に流されやすい。しかし、侍にとって「仁」があり過ぎることは歓迎できないことだった。伊達政宗は「義に過ぐれば固くなる。仁に過ぐれば弱くなる」と言い、慈愛の感情に流されすぎることを戒めている。「武士の情け」とは、盲目的な衝動ではなく、ある心の状態を表現しているものでもない。生殺与奪の力を背景に持ち、正義に対する適切な配慮を含んでいるものであった。一の谷の戦いで、熊谷直実が自分の子と同年代の若き武者平敦盛を泣く泣く斬る場面は、その代表例である。歴史家は、この話は作り話めいていると言うが、か弱いもの、敗れた者への仁は侍にふさわしいものとして奨励され、血なまぐさい武勇伝を彩る特質であった。
 武士には詩歌音曲をたしなむことが奨励された。合戦におもむく武士が歌を詠んだり、討死した武者の鎧や衣服から辞世の歌を記した書付が見つかることは珍しいことではない。日本では、音楽や書に対する親しみが、「仁」の心、すなわち他人に対する思いやりの気持ちを育てた。
6.礼
 「礼」とは長い苦難に耐え、親切で人をむやみに羨まず、自慢せず、思い上がらない。自己自身の利益を求めず、容易に人に動かされず、およそ悪事というものをたくらまない
ということである。「礼」には、相手を敬う気持ちを目に見える形で表現することが求められた。それは、社会的な地位を当然のこととして尊重することを含んでいる。言い換えれば、「礼」は社交上必要不可欠なものとして考えられていた。品性の良さを失いたくない、という思いから発せられたならば、それは貧弱な徳であると言えるだろう。ただし、「礼」も度が過ぎることは歓迎されないことであった。伊達政宗は「度を越えた礼は、もはやまやかしである。」と言い、仰々しいだけで心のこもっていない「礼」を軽視した。「礼」は細分化され、挨拶や座り方なども細かく決められており、特殊な場合は礼の専門家によって指導されることもあった。西洋人の一部は、これらの決められた行儀作法を、自由な発想を奪うもの、として批判している。確かにそのような面があることは私も認めざるを得ない。しかし、「礼」を厳しく遵守する背景には道徳的な訓練が存在しているのである。
 代表的な例は茶道である。茶道は喫茶の行儀作法以上のものである。それは芸術であり、詩であり、リズムを作っている理路整然とした動作である。そして、精神修養の実践方式なのである。礼とは動作に優雅さを添えるものであるが、礼に乗っ取った動作は礼儀のほんの一部分に過ぎない。かつて孔子は「音が音楽の一要素であるのと同様に、見せかけ上の作法は、本当の礼儀作法の一部に過ぎない。」と言った。動作も重要なものであるが、それだけでは「礼」ではない。「礼」に必要な条件とは、泣いている人と共に泣き、喜びにある人とともに喜ぶことである。「礼」とは慈愛と謙遜から生じ、他人に対する優しい気持ちによってものごとを行われるので、いつも優美な感受性として表れる。その感受性は、日常生活の些細な動作の中に顔を出すのである。
7.誠
 「誠」とは「言」と「成」という表意文字の組み合わせである。武士にとって、嘘をつくことやごまかしなどは、臆病なものと蔑視されるべきものであった。商人や農民よりも社会的身分が高い武士には、より高い水準の「誠」が求められていると考えていた。「武士に二言はない」という有名な言葉があるが、ドイツでも同様の意味の言葉がある。「Ritterwort(リッターヴォルト):騎士の言葉」(Ritterとは騎士。wortは言葉)である。この言葉には、嘘偽りがない言葉、という意味も持っている。断言した武士の言葉は、真実であるということを十分に保障するものであった。「二言」のために、壮絶な最期を遂げた武士の話は、いくつも存在している。
 そのため、武士同士の約束はたいてい証文などはとらなかった。言葉に嘘がない以上、改めて証文をとる必要がないからである。むしろ、証文を書かされることは武士の体面に関わることである、と考えられた。「誓うことなかれ」というキリストの教えを、多くのキリスト教徒日常茶飯事に破り続ける一方で、真のサムライは「誠」に対して並々ならない敬意を払っていたのである。
 しかし、武士が「誓いを立てる」という行為を一切行わなかったわけではない。八百万の神々に誓いを立てることもあれば、誓いを補強するために血判を押すこともあった。ただし、彼らの誓いは決してふざけた形式、大げさな祈りなどには堕落しなかった。キリスト教世界と異なるところはもう一点ある。武士にとって嘘をつくことは、罪悪というよりも「弱さ」の表れであると考えられたことである。そして、「弱い」ということは武士にとってたいへん不名誉なことであった。言い換えるなら、「誠」がない武士は不名誉な武士であり、「誠」がある武士こそが名誉ある武士、と言えるのである。
8.名誉
 「名誉」は、幼児の頃から教え込まれるであり、侍の特色の一つである。武士の子供は「人に笑われるぞ」「体面を汚すなよ」「恥ずかしくないのか」という言葉で、その振る舞いを矯正されてきた。「名誉」という言葉自体はあまり使われなかったが、その意味は「名」「面目」「外聞」などの言葉で表現されてきた。新井白石
「不名誉は樹の切り傷の如く、時はこれを消さず、かえってそれを大ならしむるのみ」
と言った。名誉は、誠と同様に、武士階級の特権を支える精神的な支柱の一つであった。
 しかし、武士の名誉の名の下に、些細な事件や侮辱されたという妄想から、悲惨な刃傷事件が発生することも多かった。その多くは、武士という階級に重きを置くための創作であったが、武士の「名誉」に端を発する事件は数多く起きていた。そうなると、名誉はかえって武士を残忍にさせるものに成りかねなかったが、それは「寛容」と「忍耐」で補足されていった。些細なことで腹を立てたりすることは「短気」という言葉で嘲笑される素となったのである。寛容、忍耐の境地に達した人は稀であるが、その一人の西郷隆盛
「道は天地自然の物にして、人はこれを行なふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」
と、教訓を残している。
9.忠義
 忠義の観念は、個人主義思想の西洋と武士道が育った日本では幾分異なっている。西洋の場合、父と子、夫と妻という家族関係の間柄にも、それぞれ個別の利害関係があることを認めていた。この思想の下では、人が他に対して負っている義務は著しく軽減されている。個々に権利が認められると同時に、責任が負わされるためである。武士道の場合、一族の利害と一族を形成する個々の利害は一体のものであった。この、侍の一族による忠義が、武士の忠誠心に最も重みを帯びさせているのである。ある個人に対する忠誠心は、侍に限ったものではなく、あらゆる種類の人々に存在するものである。武士道では、個人よりもまず国が存在する。つまり、個人は国を担う構成成分として生まれてくる、と考えているのである。同様の考え方は、古代ギリシャの高名な哲学者・アリストテレスや現代の社会学者の一部にも見られるものである。換言すれば、個人は国家のために生き、そして死なねばならないのである。同じく、古代ギリシャにおいて先駆の哲学者であったソクラテスは、国家あるいは法律に次のように言わしめた。
「汝は我(国家・法律)が下に生まれ、養われ、かつ教育されたのであるのに、汝と汝の祖先も我々の子および召使でない、ということを汝はあえて言うか」
武士道が抱えていた思想は、西洋においてもそれほど突飛な思想とは言えない。ただ、武士道の場合、国家や法律に相当するものは主君という人間の人格であった。
 グリフィスは「中国では、儒教の倫理は父母への従順を人間の第一の責務としたが、日本では忠義が優先された」と言ったが、正しい表現であろう。「忠」と「孝」の板ばさみに合った時、多くの侍は「忠」を選んだ。また、侍の妻女たちは、忠義のためには自分の息子を諦める覚悟ができていたのである。また、そのような逸話は数多く日本に存在しているのである。真の忠義とは何であろうか?武士道は主君のために生き、そして死なねばならない。しかし、主君の気まぐれや突発的な思いつきなどの犠牲になることについては、武士道は厳しい評価を下した。無節操に主君に媚を売ってへつらい、主君の機嫌をとろうとする者は「佞臣」と評された。また、奴隷のように追従するばかりで、主君に従うだけの者は「寵臣」と評された。家臣がとるべき忠節とは、主君が進むべき正しい道を説き聞かせることにある。
10.武士とお金
 武士の教育にあたって、まず第一に重要とされたことは、その子の品性を高めることであった。武士の教育科目には、剣術、弓術、柔術(やわら)、乗馬、槍術、戦略戦術、書、道徳、文学、儒学、歴史などで構成されていたが、これらを学ぶことによって身についた知識などは第二義的なものとして考えられていた。本来、侍とは行動の人である。学問は、侍がその職業上必要な範囲に限って利用された。それ以上の学問は、侍ではなく学者の仕事であった。特に儒学は、その子の品性を高めるための実践的な補助手段として利用されたものであり、決して儒学者を養成するためではない。
 宗教や神学においても、それを究めるのは僧侶や神官の仕事であり、侍は勇気を鼓舞するためにこれらを利用した。ある英国の詩人は「人間を救うのは教義ではない。教義を正当化するものは人間である」と言ったが、多くの武士はこれに賛同するであろう。
 武士の教育科目の中で、軍事上必要不可欠であると考えているものが欠けている。それは「算術」であった。出陣、合戦、恩賞、知行など、侍の生活の中にも数の知識は必要なものであったのにも関わらずである。その理由は、封建時代の戦闘には、必ずしも科学的な正確さは必要ではなかった、ということもあるが、最たる理由は、武士の教育上、数の概念を育てることは甚だ都合が悪いことであったから、である。
 武士道では、損得勘定で物事を考えない。金銭そのものさえ忌み嫌い、むしろ足りないことを誇りに感じていた。お金を貯めることもせず、理財に長けることなどは嫌うべきものであった。そのような手段は不正利得と考えられていた。もちろん、武士の生活にも組織にも金銭は必要なものであった。そのため、金銭計算などは身分の低い武士の仕事とされた。江戸時代の多くの藩でも、藩財政は小身の武士か僧侶に任されていた。有能な武士は、金銭の重要性を認めてはいたが、金銭の価値を「徳」の境地にまで引き上げることはなかったのである。江戸時代の藩では、こぞって質素倹約が奨励されたが、それは理財のためではなく、節制の訓練のためである。豪奢な生活は、人格の形成に大きな影響を及ぼす最大の脅威であると考えられていた。そのため、武士には厳格で質素な生活が要求されたのである。
 現代では、頭脳訓練は主に数学の勉強で行っているが、当時は文学の解釈や道義的な議論がその役割を担っていた。しかし、上記の通り、教育の目的はあくまで品性を高めることにあったため、教師という職業はできた人格を求められ、ある意味では聖職者的な色を帯びてきた。そのため、教師は武士の見本として尊敬されてきたのである。武士の本性は、算術では計算できない名誉を重んじることに特質がある。品性を育むという精神的な価値に関わる仕事の報酬は、金銭で酬いられるべきことではなかった。無価値だからではない。尊すぎて、価値がはかれないからである。武士は、無償・無報酬の仕事を実践していたのであった。ただし、弟子たちが師匠にある程度の金銭や品物を持参するという慣習は認められていた。清貧な教師たちは貧乏であったので、この贈り物を喜んで受け取った。彼らは自ら働くには威厳があり過ぎ、物乞いをするには自尊心が高すぎた。貧しい生活にも高貴な精神で耐え抜く彼らの姿は、鍛錬を重ねる自制心を持った生きた手本であり、その自制心は侍に必要とされたものであった。
11.武士の感情
 武士にとって、自分の感情を顔に表すことは、男らしくないことだと考えられた。武士が鍛錬してきた勇気、礼の教えは、自分の苦しみ・辛さを表情に出すことによって、他人の平穏をかき乱すことがないように、という他人への配慮のためであった。感情を表情に出さないことは「喜怒を色に表さず」という言葉で賞賛の対象となったのである。
 ある青年が「アメリカ人の夫は人前で妻に口づけをし、私室で打つ。日本人の夫は人前で妻を打ち、私室では口づけをする」と言ったが、この言葉には真実が含まれているだろう。
12.切腹
 切腹は、武士階級のみに通じる一つの法制度であり、死の儀式であった。それは、自分の罪を償って過去を謝罪するためであったり、友や一族を救うためであったり、武士が忌み嫌う不名誉の烙印を押されることから免れるためであったり、自分の誠実さを証明するためであったりと、目的は様々であった。なぜ「腹」を切るのかというと、古い解剖学では、霊魂と愛情は腹に宿ると考えられていたためである。その考えは日本に限らったものではない。古代ギリシャでも同様であり、現代フランス語でも「entraile(腹部)」という言葉が、「思いやり」「愛情」という意味でも使われているのである。
 切腹は武士にとって、栄光ある死であった。そのため、「名誉」を得ることが計算されたうえで、多くの若い侍が死を急ぐように切腹して果てた事実は否めない。しかし、真の侍は、いたずらに死に急ぐことは卑怯なことと同じだと考えていた。戦国時代の中国地方に山中鹿之助幸盛(やまなか しかのすけ ゆきもり)という武将がいた。彼の主家は戦に敗れて滅んだが、彼は主家の再興を志してたいへんな苦境を戦い抜いてきた。その彼は、下記の歌を詠んだという。
 憂き事の なほこの上に 積れかし 限りある身の 力ためさん
 ありとあらゆる困難と苦境に、忍耐と高潔な心を以って立ち向かうことを武士道は教えている。そうすることで初めて真の名誉を得ることができるのである。真の名誉は、天から自分に与えられた使命をまっとうすることである。そのために死すことは不名誉なことではないが、天が与えようとするものから逃げようとすることは卑怯なことであった。17世紀、ある高名な僧侶は以下のように言っている。「平生何程口巧者に言うとも、死にたることのなき侍は、まさかの時に逃げ隠れするものなり」「一たび心の中にて死したる者には、真田の槍も為朝の矢も透らず」
 次に、切腹の姉妹関係といってもいい制度「仇討ち」について考えてみよう。「仇討ち」は「復讐」と言い換えることができる。現代のように刑事裁判所がない時代においては、殺人は罪ではなかった。殺人を防ぎ、社会秩序を保っていたのは、被害者の縁者による復讐だけであっただろう。日本の場合、「親の仇」と「主君の仇」が、仇討ちの中でも最も上位に位置していた。
 復讐には、復讐者の正義感を満足させる「もの」がある。それは、死すべき理由のない者の命を奪った行為を悪とみなし、被害者の血肉を受け継いだ一族が殺人者に制裁を加えるという、自分の行為を正当化できるわりと単純な論理が動機となるからである。そういう意味では、この動機は人間の中に存在する普通の感覚、言うなれば人間の常識といえるだろう。この人間の常識が、武士道に仇討ちという制度を作らせたのである。普通の「定め」に従っていては裁きができないような事件でも、「仇討ち」という手段に訴えることができた。
 「忠臣蔵」の物語で知られる、江戸時代中期の47名の赤穂浪士の仇討ちの話は、現代の日本でも多くの人々の感動を呼んでいる。47士の主君・浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)が切腹を申し付けられた時、控訴できる上級法廷は存在せず、十分な取調べを受けることもできずに、その命を散らした。そのため、忠義あふれる彼の家臣たちは、唯一の最高法廷とでも言うべき「仇討ち」に訴え出ることしか道は残されていなかった。仇討ちを果たした後、47士は一般の定めによって有罪とされ、切腹を命じられた。(管理人注:実際に切腹を命じられたのは46名。詳細はこちら)しかし、一般大衆は彼らに対して別の判断を下した。彼らが重んじた武士の名誉、主君への忠義の心は、民衆をして彼らに「義士」の称号を与えたのである。
13.武士の魂「刀」
 「刀は武士の魂である」という言葉はあまりにも有名である。刀は、武士道の力と武勇の象徴として扱われた。刀を作るのは刀匠と呼ばれる鍛冶屋であるが、刀匠は単なる鍛冶屋ではない。彼らは、仕事を始める前に必ず神に祈りを捧げ、身を清めていた。その作業場は神聖な領域といっても過言ではないだろう。彼らが刀を鍛える作業は、ただの物理的な行為に留まらなかったのである。そのように作られた刀は、持ち主に深く愛され、さらには尊崇の対象にも成り得た。そのため、刀に対する侮辱は持ち主に対する侮辱とみなされ、他人の刀を跨いだりすることは、持ち主に対する大きな侮辱にもなったのである。
 このように、武器以上の意味を持った刀に対して、武士道は適切に扱うことを強調している。不当な使用を激しく非難し、やたらと刀を振り回して威を見せる者は、卑怯者、虚勢をはる者として蔑まれた。心が洗練されている武士は、自分の刀を使うべき時をしっかりと心得ていた。また、その時はめったに訪れない稀な場合であることを知っていた。幕末の混乱期に活躍した傑物に勝海舟(かつ かいしゅう)という人物がいた。彼は身分の低い武士であったがその実力を認められ、幕府の要職を歴任した。そのため、多くの暗殺者に命を狙われたが、後に彼はこの頃の様子を回顧録にこう記している。「私は一人も斬ったことがない。腕の立つ河上彦斎は何人も斬ってきたが、最後は人に斬られて殺された。私が殺されなかったのは、一人の刺客も殺さなかったからだ。」
 「負けるが勝ち」「血を流さない勝利こそ最善の勝利」という格言がいくつかある。幾人もの人を斬り続ける道は、真の勝利にはたどり着かないことを意味している。つまり、武士道が求めた究極の理想とは「平和」だったのである。しかし残念なことに、武士は武芸に励むことばかりが優先され、究極の理想について追求することはほとんどなかった。そういう仕事は、僧や道徳家が担っていた。
14.武士道が求めた女性の理想像
 武士道は男性のために作られたものである。その武士道が求めた女性の理想像は、家庭的であると同時に、男性よりも勇敢で決して負けないという、英雄的なものであった。そのため武家の若い娘は、感情を抑制し、神経を鍛え、薙刀を操って自分を守るために武芸の鍛錬を積んだ。この鍛錬の目的は戦場で戦うためではなく、個人の防衛と家の防衛のためであった。武家の少女達は成年に達すると「懐剣」と呼ばれる短刀を与えられた。その短刀は、彼女達を襲う者に突き刺さるか、あるいは彼女達自身の胸に突き刺さるものであった。多くの場合、懐剣は後者のために用いられた。女性といえども、自害の方法を知らないことは恥とされていたのである。さらに、死の苦しみがどんなに耐え難く苦しいものであっても、亡骸に乱れを見せないために両膝を帯紐でしっかりと結ぶことを知らなければならなかった。
 武家の女性には、家を治めることが求められた。彼女達には、音曲・歌舞・読書・文学などの教育が施されたのも、その目的は、普段の生活に彩と優雅さを添えるためであった。父や夫が家庭で憂さを晴らすことができればそれで十分だった。娘としては父のため、妻としては夫のため、母としては息子のために尽くすことが女性の役割であった。男性が忠義を心に、主君と国のために身を捨てることと同様に、女性は夫、家、家族のために自らを犠牲にすることが、たいへん名誉なことであるとされた。自己否定があってこそ、夫を引き立てる「内助の功」が認められたのである。ただし、武士階級の女性の地位が低かったわけではない。女性が男性の奴隷でなかったことは、男性が封建君主の奴隷ではなかったことと同様である。対等に扱われなかったのは事実であるが、それは男女の間に差異が存在するためであり、不平等ではなかった。例えば戦場など、社会的、政治的な存在としては、女性はまったく重んじられることはなかったが、妻として、母としての家庭での存在は完全であった。父や夫が出陣して家を留守にしがちな時は、家の中のことはすべて女性がやりくりしていた。子女の教育もその仕事の一つである。時には、家の防備を取り仕切ることもあった。
 日本の結婚観は、キリスト教の結婚観よりもはるかに進んでいると思われる。アングロ・サクソン系の個人主義のもとでは、夫と妻は別の二人の人間である、という考え方から抜けることができない。そのため、二人がいがみ合う時は、それぞれに「権利」が認められることになる。日本の場合、夫と妻は独りでは「半身」の状態であり、夫妻がそろうことで一個の形になると考えている。言わば、お互いがお互いの一部になっているようなものである。社交上、夫が自分の妻を「愚妻」と表現することがあるのは、妻に対して蔑みの言葉を投げているのではなく、自分の半身を謙遜しているからなのである。
 このような武士道独特の徳目は、武士階級だけに限られたものではなかった。時と共に、それ以外の階級の日本人たちも武士道に感化されていき、日本の国民性というものが形成されていったのである。
15.大和魂
 武士は一般庶民を超えた高い階級に置かれていた。かつてどの国でもそうであったように、日本にも厳然とした身分社会が存在していた。その中で、武士は最上位に位置づけられていたのである。江戸時代、日本人の総人口における武士階級の割合は決して多くはなかったが、武士道が生み出した道徳は、その他の階級に属する人間にも大きな影響を与えたのである。農村であれ都会であれ、子供たちは源義経とその忠実な部下である武蔵坊弁慶の物語に傾聴し、勇敢な曾我兄弟の物語に感動し、戦国時代を駆け抜けた織田信長豊臣秀吉の話に熱中した。幼い女の子であっても、桃太郎の鬼が島征伐のおとぎ話などは夢中で聞いていた。このように、大衆向けの娯楽や教育に登場した題材の多くは武士の物語であったのである。武士は自ら道徳の規範を定め、自らそれを守って模範を示すことで民衆を導いていったのである。「花は桜木、人は武士」という言葉が産まれ、侍は日本民族全体の「美しい理想」となった。「大和魂」は、武士道がもたらしたもの、そのものであった。
 日本民族固有の美的感覚に訴えるものの代表に「桜」がある。桜は、古来から日本人が好んで来た花であった。桜を愛でる心は、西洋人がバラの花を愛でる心と通い合えるところはほとんどない。まず、バラには桜が持つ純真さが欠けている。さらに、甘美さの裏にトゲを隠している。桜はその裏にトゲを隠し持っているようなことはない。そして、バラは散ることなく茎についたまま枯れ果てる。それはあたかも生に執着し、死を恐れるかのようである。しかし、桜の花は散る。自然のおもむくままに、散る準備ができている。その淡い色合は華美とは言えないが、そのほのかな香りには飽きることがない。このように美しく、はかなげで、風で散ってしまう桜が育った土地で、武士道が育まれたのもごく自然なことであろう。
16.最後に 武士道は甦るか
 上記のように、武士道は「武士」と呼ばれた階級に属した人々により形成され、その心は日本人全体に受け継がれていった。しかし、明治維新によって「武士」階級は姿を消し、武士道が育まれた土壌は消え去ってしまった。では、武士道はこのまま消えてしまうのか?答えは「否」である。欧米諸国から「小さなジャップ」と侮られた日本人は、この数十年間で様変わりした。「小さなジャップ」が弱くか細い存在でないことは、先の日清戦争の勝利で証明されている。日清戦争の勝利は、近代軍備の力とか近代教育の効果とか言われているが、それらは事実の半分にも到達していない。武器だけで戦争に勝てるだろうか。学問だけで勝てるだろうか。何より大切なものは、民族の精神であろう。維新を進め、新たな近代国家「日本」を作り上げた原動力となった人々は、紛れもない「侍」たちであった。
 武士道は、一個の独立した道徳として復活することはないかもしれない。はっきりとした教義を持たないからである。しかし、武士道が残してきた徳目の数々は、決して消え去ることはないだろう。西洋諸国の文化の中にも、武士道と同じ徳目が息づいているからだ。
 時代が流れ、武士道は城郭・武具と共に崩壊した。既に、その役目を終えたかのようでもある。しかし、不死鳥は
自らの灰からのみ甦ることができるのだ。武士道の栄誉は再び息を吹き返し、散った桜の花のように風に運ばれ、その香りは人々を祝福し続けるだろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◆三浦 梅園(みうら ばいえん、享保8年8月2日(1723年9月1日) - 寛政元年3月14日(1789年4月9日))は、日本の江戸時代の思想家、自然哲学者、本職は医者。豊後国大分県国東市安岐町富清)の出身。条理学と言われる独自の学問体系を築いた『玄語』が有名。主要著書としては、他に『贅語』『敢語』がある。これらは、梅園自身によって「梅園三語」と命名された。この三著作が梅園の思想の骨格をなすのである。このうち『贅語』と『敢語』は完成したが、『玄語』は37年の歳月を費やして、ついに完成できなかった。

<昨年の今日>もまた空白である。9月に入っても数日しかブログを書いてなかった。