『無印良品が売れる秘密』(そして連続355日へ)

◆『無印良品が売れる秘密!38億円赤字から大逆転』(2013年9月19日放送 22:00 - 22:54 テレビ東京カンブリア宮殿」より)
 宇都宮市にあるインターパークビレッジは無印良品の商品を多数取りそろえている。シンプルな色に飽きのこないデザインが特徴で、PP衣装ケースを30個購入する顧客もいる。化学調味料などを使っていない素材を生かしたカレーは年間500万個売れるほど大好評。さらにその「次があるバスタオル」は使い古したらぞうきんやバスマットとして再利用できる。伊藤千鶴さん一家では雑貨類から家具まで無印良品を愛用している。伊藤一花さん一家は家中が無印良品だらけで、さらに家自体も「無印良品 窓の家」。光や風を取り入れやすい作りで、機能美かつシンプルな内装が特徴的。無印良品西友プライベートブランドとして誕生し、製造過程を見直すなどして低価格を実現。スタート時は40アイテムだったが、ファンションやインテリアにも進出してファンを獲得していった。現在は国内で382店舗を展開し、年間購買者数は6500万人。無印良品の定番アイテム「洗いざらしのシャツ」は年間15万着売れていて、昔と比べて着心地が進化している。ポケットもスマホのサイズに合わせて大きくした。無印良品の「エジプトオーガニックコットン天然染タオル」は化学肥料などに頼っていないコットンをエジプトで栽培し、それを買い上げて使っている。さらにヤシの殻を使って染料を抽出し、手間と時間をかけて染め上げている。無印良品の「PET詰替ボトル」、「壁に付けられる家具・長押」はデザイナーが消費者からの声なき声を聞こうと家庭に訪問したことで生まれたという。また年間17万件というお客からのクレーム、要望などが商品開発に役立てられている。
 無印良品を手がける良品計画では朝早くから役員が出社する社員に挨拶していて、役員である松井忠三会長もその一人。松井が社長として就任した当時、放漫経営などが原因で良品計画の赤字は38億円を計上していて、当たり前のことを当たり前にやるということを行ってきたことで現在はV字回復を果たしている。スタジオで良品計画会長の松井忠三は創業以来、品質や機能は一切損なわずに低価格を打ち出してきた。また一般的な店舗と違って容器の形状や色で顧客にアピールしようとしないことが無印良品の特徴だと語る。無印商品の「体にフィットするソファ」は年間10万個売れていて、中身には極小ビーズが入っているので座り心地が良いという。また松井忠三社長は無印良品のコンセプトは安くはするが、品質や機能は落とさないで、百貨店の品質を七掛けで売るという目標でスタートした。無印良品には衣類、家具などそれぞれの分野に強豪相手がいるが、トータル的な面では競合は存在せず特異なブランドだという。
 今でこそ絶頂期にある良品計画だが12年前は38億円の赤字を計上していた。ユニクロニトリなどが台頭していて、さらに会社の体質は組織力を軽んじ、放漫経営をしていたという。松井忠三はシンプルで品質重視という原点に立ち返り、当たり前のことを当たり前にやる仕組みを目標に掲げた。松井忠三が当たり前のことを当たり前にできる仕組みを目指した事で、無印良品の各店舗では商品のレイアウト、ビジュアル面といった基準を導入した。無印良品 有楽町店など全ての店には接客の基本から危機管理といった店内業務の仕組みなどを網羅したマニュアル「ムジグラム」がある。無印良品の各店舗にあるマニュアル本「ムジグラム」には、写真付で衣類のたたみ方やマネキンへの衣類の着せ方などがわかりやすく記されている。さらに新人スタッフの研修の際にも「ムジグラム」を活用し、仕事の意味などを明確にすることでスタッフのモチベーションが高まるという。無印良品ではレジの後ろにオフィススペースを備えていて、スタッフはスタッフのコントロールをしつつ顧客の状況を逐一確認することができる。レジが混雑した際にはスタッフを補充するなど店舗の運営効率を高めている。良品計画では各部署に仕事のデッドラインを設けていて、遅れた場合は部署全体でフォローするような仕組みを導入している。それにより38億円の赤字を計上していた良品計画は赤字を脱出し、2012年度には過去最高益となる197億円を計上した。良品計画松井忠三会長は各店舗に店舗運営などを記した仕組みの集大成「ムジグラム」を置いていて、従業員にとっては「ムジグラム」の内容が常識だという。村上龍は品出しの回数までマニュアル化しているのか質問すると、会長は「担当者は感情で売り場を作ろうとしてしまう」と述べた。だが決して従業員をルールに縛り付けるのおらず、創意工夫も行うこともできる。良品計画松井忠三会長は1973年に西友に入社し、91年に良品計画に出向した。そして2001年に社長に就任し、赤字からの立て直しを目指して100億円分の商品を燃やすという大胆な行動に出た。良品計画松井忠三会長は西友で働いていた当時に上司から煙たがられ、無印計画には左遷という形で出向した。だが会社を建て直すために社長に起用されたことについて、会長は「数々の経営者と出会ったことを通して苦労人や左遷した人はトップに立って立て直しに成功している」と語る。反日デモの影響で中国から撤退する日本企業が相次ぐ中、良品計画は中国国内で好評を博している。無印良品では日本国内でなく中国でも各店舗に店舗経営などを記したマニュアル「ムジグラム」を導入し、そこには接客態度も事細かく記されている。ファウンド ムジ 青山は無印良品の第一号店をリニューアルした店で、琉球ガラスやほぐし織 トートバッグなどを取りそろえている。無印良品はほぐし織など日本をはじめとする伝統工業を無印流にアレンジした商品を販売している。またかかとが直角な「足なり直角靴下」は年間900万足を売り上げている。吉谷靴下で大量生産されている無印良品の「足なり直角靴下」は一般的なものよりも足にフィットするので長く履いていてもズレないという。良品計画松井忠三会長は世界で長く親しまれているものは普遍性の価値があり、無印のコンセプトを加えることで商品開発をしてきたと述べた。
 収録を終えた村上龍無印良品ついて、「松井忠三会長は標準化というキーワードで成功体験に縛られていた良品計画を再生させた。現代には過去の成功への依存を断ち切り、集団への埋没を嫌うという反主流派の時代なのだと思った」と話し、今回の放送を振り返った。

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◆今日は仕事を終えて実家へ。連続355日。あと10日で一年間連続達成へ。


(9月20日生まれの偉人)
◆吉田 松陰(よしだ しょういん、文政13年8月4日(1830年9月20日)〜安政6年10月27日(1859年11月21日))は、日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者、兵学者、地域研究家。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者として知られる。(http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130711
 吉田家に養子入り後、大次郎と改める。通称は寅次郎。諱は矩方(のりかた)。字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。松陰の号は寛政の三奇人の一人で尊皇家の高山彦九郎のおくり名にちなんでつけられた。文政13年(1830年)8月4日、萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となるが、天保6年(1835年)に大助が死亡したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。11歳の時、藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められた。しかしアヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に遊学する。ついで、江戸に出て佐久間象山http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130322)に師事する。
 嘉永5年(1852年)、友人である宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩。この東北遊学では、水戸で会沢正志斎と面会、会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。秋田では相馬大作事件の真相を地区住民に尋ね、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリー浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を視察し、西洋の先進文明に心を打たれ、外国留学を決意。同郷の金子重之輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争にイギリスが参戦した事から同艦が予定を繰り上げて出航した為に失敗。安政元年(1854年)にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際には金子と二人で伊豆下田港に停泊中のポーハタン号へ赴き、乗船して密航を訴えるが拒否された(一説ではペリーの暗殺を計画していたともいわれる)。松陰は乗り捨てた小舟から発見されるであろう証拠が幕府に渡る前に下田町隣村の名主に自首し、下田で取調べを受けた後、伝馬町の牢屋敷に送られた。この密航事件に連座して佐久間象山も投獄されている。幕府の一部ではこのときに佐久間、吉田両名を死罪にしようという動きもあったが、老中首座の 阿部正弘が反対したため、助命されて長州へ檻送され野山獄に幽囚される。獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に著す。
 安政2年(1855年)に出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分となる。安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は久坂玄瑞高杉晋作伊藤博文山縣有朋吉田稔麿入江九一前原一誠品川弥二郎山田顕義などの面々を教育していった。なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。だが、弟子の久坂玄瑞高杉晋作桂小五郎木戸孝允)らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫した。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、松陰は捕らえられ、野山獄に幽囚される。やがて大老井伊直弼による安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。幕閣の大半は暗殺計画は実行以前に頓挫したことや松陰が素直に罪を自供していたことから、「遠島」にするのが妥当だと考えていたようである。しかし松陰は尋問に際し老中暗殺計画の詳細を自供し、自身を「死罪」にするのが妥当だと主張。これが井伊の逆鱗に触れ、安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処された。享年30(満29歳没)。生涯独身であった。
 獄中にて遺書として門弟達に向けて『留魂録』を書き残しており、その冒頭に記された辞世は“身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”。また、家族宛には『永訣書』を残しており、こちらに記された“親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん”も辞世として知られている。
◆大野 伴睦(おおの ばんぼく、本名:大野 伴睦(おおの ともちか)、1890年(明治23年)9月20日 - 1964年(昭和39年)5月29日)は日本の政治家。
 東京市会議員を経て衆議院議員となり、衆議院議長国務大臣北海道開発庁長官、日本自由党幹事長、自民党副総裁を務めた。没後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。典型的な党人政治家として知られ、「伴ちゃん」の愛称で親しまれた。また、「政治は義理と人情だ」「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」等の格言を残した。タカ派政策集団青嵐会を結成し、後に農林水産大臣科学技術庁長官などを務めた中川一郎の政界での師匠として知られる。

<昨年の今日>または空白である。