「オリンピック開催と経済効果」

◆2020年のオリンピックが東京で開催される。一部の業種や東京の一部の地域には経済効果はあるが、それほどの期待はできない。今回のオリンピックでは、施設整備費が約4600億円と言われている。都の試算では3兆円の経済効果があり、民間の予測では4兆円強というものもある。確かに小さい数字ではない。しかし、たとえば、今年度の公共事業費は5兆円強である。補正予算を入れれば10兆円ほどの予算が執行されつつあるが、それほど景気が浮揚しているわけではない。わが国のGDPは約480兆円ですが、数兆円、それも長年にわたってその予算が執行されるとしたら、経済に与える影響はそれほど大きくないのでhないか。前回の1964年の東京オリンピックの際にはGDPはわずか30兆円弱で。時あたかも高度経済成長の真っただ中。インフレ率も高かったものの、成長率も10%前後で、社会に活気がみなぎっていた。高齢化率も10%を切っていた。オリンピックのために新幹線や首
都高も整備された。しかし、その後、日本経済は不況になってしまった。現在では、残念ながら成長の鈍化やそれを何とか支えるための財政赤字の急増もあり、当時に整備されたインフラの劣化が指摘されている。そういった意味で、前回と今回の東京オリンピックは経済的背景が全く異なった中でのオリンピックだという認識が必要である。
 そうした中で、オリンピックはコンパクトに行いながら、投入される資金は交通網や競技場のバリアフリー化に使えばいい。高齢化が進展する中、高齢者や身体が不自由な方でも移動がしやすい都市づくりを目指せばよい。そうすれば、オリンピック後もさらに進む高齢化に対応ができると考える。東京のインフラが整備されれば、それだけ東京一極集中が進みやすい。地方の疲弊や震災復興を忘れてはならない。
 経済を活性化するには、本物の「成長戦略」が必要。アベノミクス3本の矢「成長戦略」第2弾が、発表まもなく発表される。第1弾は失望に終わったが、オリンピックのように希望を見いだせる内容を期待したいし、オリンピックの高揚感にかまけて成長戦略がなおざりになってはいけない。しっかりとした成長戦略なしに、財政赤字や空洞化、高齢化対応の社会福祉といった大きな課題は解決しない。東京でのオリンピックが決まった以上、私が子供の頃に経験したわくわく感を、今の子供たちにも味わってもらえることを願いたい。それとともにその子供たちの次の世代にもわくわく感を味あわせてあげられるように、経済の持続的発展を望みたい。そして一刻も早く少子化からの脱却に向けて、総合的な政策を打ち出すべきである。7年後の日本が貧困国にならないためにも。早急に取り組むべきである。

(9月22日生まれの偉人)
◆横井 小楠(よこい しょうなん、文化6年8月13日(1809年9月22日) - 明治2年1月5日(1869年2月15日))は、日本の武士(熊本藩士)、儒学者、政治家。維新の十傑の1人。熊本藩において藩政改革を試みるが、反対派による攻撃により失敗。その後、福井藩松平春嶽に招かれ政治顧問となり、幕政改革や公武合体の推進などにおいて活躍する。明治維新後に新政府に参与として出仕するが暗殺された。
◆吉田 茂(よしだ しげる1878年明治11年)9月22日 - 1967年(昭和42年)10月20日)は、日本の外交官、政治家。外務大臣(第73・74・75・78・79代)、貴族院議員(勅選)、内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、 第一復員大臣(第2代)、 第二復員大臣(第2代)、農林水産大臣(第5代)、衆議院議員(当選7回)、皇學館大学総長(初代)、学校法人二松学舎舎長(第5代)などを歴任した。葉巻きをくわえたワンマン宰相。 軽軍備・経済重視の吉田ドクトリンが戦後復興の指針に。第二次大戦後の政治家。東京都神田生まれ。東大卒。外務省に勤務、駐英大使などを勤める。戦争に否定的だっため、第二次大戦中は反政府活動の嫌疑で憲兵隊に拘置された。戦後は東久邇(ひがしくに)・幣原(しではら)両内閣の外相となる。1946年5月日本自由党総裁として第一次吉田内閣組閣、以後5回の政権で、吉田ドクトリンにより占領から講和・独立までの戦後日本復興の枠組みを作った。
 東久邇宮内閣や幣原内閣で外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日〜1947年5月24日、および、1948年10月15日〜1954年12月10日まで在任した。優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、戦後日本の礎を築いた。ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた。政治活動以外の公的活動としては、廃止された神宮皇學館大學の復興運動に取り組み、新制大学として新たに設置された皇學館大学にて総長に就任した。また、二松学舎では、金子堅太郎の後任として学校法人の理事長にあたる舎長に就任した。
 * 外務省飯倉公館(外国の賓客をもてなす場所)の隣に建つ外交資料館別館。この別館は財団法人吉田茂記念事業財団(現 財団法人吉田茂国際基金)から外務省に寄贈されたもの である。入り口を入った真正面に和服姿の大きな吉田茂の上半身像が体の前で手を組んでおり、「宰相吉田茂像」とある。製作者は誰かと探したがわからなかった。また階段の上り口 には、昭和27年11月のメガネをかけた吉田の写真が飾ってある。受け付けの前に貼ってある年譜をみる。吉田茂は高知の自由党の志士であった竹内綱の五男として東京で生まれてい  る。後に、68歳で自由党総裁となり内閣を組織するという因縁を発見する。3歳で横浜の貿易商吉田健三の養子になる。この養子制度を含む日本の「家」に思いを馳せる。確か斉藤茂 吉も養子だった。江戸時代から家は法人格的な性格を持っていたから、優秀な番頭に実務を任せたり、子供がいない場合にはできのいい子供を養子に迎えて家の存続を図るなどの工夫 が見える。明治維新後、株式会社が輸入されたが日本人は違和感無く導入して大きな成果をあげている。要するに会社というものに慣れていたのだ。日本の家は実は会社と同じだった のである。
  明治維新の大立者であった大久保利通の子供であった牧野伸顕伯爵の娘を娶ったが、吉田健三の妻の祖父、つまり吉田茂の曽祖父は江戸時代の大儒・佐藤一斉だったことを系図を見 て発見する。茂の娘・和子が夫・麻生太賀吉との間に設けたのが、安倍内閣麻生太郎副首相兼財務大臣である。サンフランシスコ講和会議では、参加51カ国で、日本との講和に賛成 48、反対3で講和条約が成立した。署名は主席全権の吉田茂だった。吉田は「歴史を知らない国民は滅びる」という言葉をよく使った。89歳で死去するまで政治的に大きな影響力を持 った吉田は、東京帝大を28歳で卒業、50歳で外務次官、外相は67歳、首相は68歳というから随分と遅咲きである。そして75歳で第5次内閣を組織するなど政治的にも長命であった。昭 和21年5月から29年12月まで首相在任期間は2616日となった。昭和の20年代は吉田ワンマンに率いられた時代だったのだ。
  在任期間一位は2798日の佐藤栄作http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130327)、3位は1806日の中曽根康弘 である。
吉田の後を襲った鳩山一郎(http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130101)とは協力と競争の関係にあったようだ。吉田は日米安保をやり、鳩山は日ソ国交回復を実現している。