獨歩忌。塙保己一記念館。岸田劉生。

◆獨歩忌・・・作家・詩人の國木田獨歩[くにきだどっぽ]の1908(明治41)年の忌日。
 国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4年7月15日) - 1908年(明治41年)6月23日)は、日本の小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者。千葉県銚子生まれ、広島県広島市山口県育ち。ちに哲夫と改名した。筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがある。 田山花袋柳田國男らと知り合い「独歩吟」を発表。詩、小説を書いたが、次第に小説に専心。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」などの浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされる。また現在も続いている雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されている。夏目漱石は、その短編『巡査』を絶賛した他、芥川龍之介国木田独歩の作品を高く評価していた。ロシア語などへの翻訳がある。

<偉人記念館>
岸田劉生(昭和の人物一覧より)http://showa-g.org/men/view/133
 出身東京都 生年月日1891年6月23日没年月日1929年12月20日年齢満38歳没。大正から昭和初期にかけて活躍した洋画家。娘・麗子をモデルとした『麗子五歳之像』『麗子微笑』などのいわゆる「麗子像」シリーズが特に有名。洋画家・黒田清輝に師事し絵を学び、1912年、高村光太郎らとともにヒョウザン会を結成、本格的に画壇へデビューする。その後、無骨な写実性と深い精神性をあわせもつ独自の会が様式を確立、『切通しの写生(道路と土手と塀)』(重文)や麗子の肖像など数々の傑作を生み出した。だが、1929年、生涯ただ一度の海外旅行から帰国した直後、滞在先の山口県徳山(現在の周南市)にて尿毒症のため38歳の若さで他界した。非常に潔癖症であったといわれているそうだ。
塙保己一記念館 http://www.city.honjo.lg.jp/kanko_bunkazai/rekishi/1379046494037.html
 雉岡城内にある児玉が生んだ有数の国学者 塙保己一(1746〜1821)も係わる遺品や関係文書、保己一が編さんした「群書類従」等が収蔵・展示されている。保己一は延享3年5月5日(1746)武蔵国児玉郡保木野村(現児玉町大字保木野)百姓字兵衛の長男として生まれ、7歳のとき眼病を患い失明してしまう。15歳のとき志しを抱き江戸に出て雨富検校の門に入り鍼・あんまの修行に励みましたが生まれながらの不器用から各種業を身に付ける事に大変苦労した。 しかし、保己一の学問に対する情熱と才能を見抜いた雨富検校の援助により国学・和歌、儒学、漢学などを学び、寛政5年(1793)48歳の時国学の研究の場として和学講談所を創立した。保己一の学問的活動の最大の成果は、 後世に残す価値のある古い書物を集めて校訂・分類のうえ約四十年間かけて編さん刊行した「群書類従」がある。

<昨年の今日>今日も再び週末農業。http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130623/p1