「徳川家康没後400年記念 特別展 大 関ヶ原展」

 ●家康没後400年を迎え、「徳川家康没後400年記念 特別展 大 関ヶ原展」が東京、京都、福岡で開催される。東京では、東京都江戸東京博物館で2015年3月28日(土)〜5月17日(日)まで行われる予定である。
 この戦いは、慶長5年(1600年)9月15日、朝もやが晴れると美濃国関ヶ原に銃声が響きわたった。天下分け目の合戦の始まりである。そこで繰り広げられた「もののふ達」の戦いは、やがて、その子孫たちに伝説として語り継がれ、数多くの屏風や絵巻物などの作品に描き残された。画面一杯に描かれたその情景には、さまざまな物語が描き込められている。多くの作品の中心には、徳川家康が、金扇馬印と旌旗に囲まれて、華々しく描かれている。関ヶ原の戦いは、そこで勝利を収めた徳川家をはじめとする大名家の、後世、御家繁栄の起点であった。
 慶長3年(1598年)8月18日、太閤秀吉がこの世を去った。盤石に見えた豊臣政権は、これを境に大きく動き始める。水面下にあった様々な対立関係が、やがて大きなうねりとなり、日本全国に広がっていった。次の時代を見据え、着々と足場を固める徳川家康。幼き後継者、豊臣秀頼を前面に押し出し、政権の中枢を狙う石田三成。この二人が、豊臣政権を「関ヶ原」へと、導いていくことになる。
 慶長5年(1600年)6月16日、上杉に謀反の疑い有りと、徳川家康は軍勢を率い、会津に出陣した。この動きを待っていたかのように、石田三成は盟友、大谷吉継等とともに挙兵。日本中に激震が走る。「内府ちがひの条々」(徳川家康に対する告発文)を錦の御旗に、各地の大名達へ檄を飛ばし、反徳川勢力を結成して、手始めに伏見城を攻略する。徳川家康は、この事態を受け、石田三成勢と雌雄を決すべく、黒田、福島、細川等の諸将と共に西へ反転を開始。この動きに呼応して、戦の火の手は、瞬く間に全国に飛び火した。家康が去った東北では、上杉景勝(西)と伊達政宗(東)が激突。北陸では、前田利長(東)が丹羽長重(西)を攻め、九州においては黒田如水加藤清正(東)が大友吉統(西)はじめとする西軍方諸将と干戈を交えるという、まさに全国的規模で関ヶ原の前哨戦が始まった。
 慶長5年(1600年)9月15日早朝、決戦の火ぶたが切られた。明治時代に、当時の帝国陸軍軍事顧問であったドイツ陸軍のメッケル参謀は、関ヶ原の両軍布陣図を見て、西軍勝利を断言したという。有利な布陣と、東軍に劣らぬ大軍を擁した西軍は、何故敗北したのか。福島(東)対 宇喜多(西)この両軍の激突で始まった戦は(一説には、先鋒の福島隊より先に、井伊、松平の小隊が仕掛けたとも言われる)各所で激戦が展開されていく。 大谷吉継(西)の孤軍奮闘、黒田、細川(東)と石田三成隊の死闘など、後世に語り継がれた名勝負が続く中、一方で数々の諜報、謀略という裏側での駆け引きも密かに進んでいた。 関ヶ原には参加はするが動かない勢力。寝返りを思慮する者達。多くの武将が、疑心暗鬼の不安を抱える中、西軍の大勢力である小早川秀秋が動いた。徳川方からの調略の結果か、石田三成への私怨(三成の報告により、大幅な減封を受けた)か、味方であるはずの大谷隊に軍勢を向けたのだ。多勢に無勢の大谷隊は玉砕。圧倒的有利と言われた西軍は、これを境に大混乱に陥り、敗退した。 こうして戦国でもっとも長い一日が終焉をむかえた。

<1月31日生まれの偉人>
◆徳川 家康(とくがわ いえやす) / 松平 元康(まつだいら もとやす・天文11年12月26日(1543年1月31日)−元和2年4月17日(1616年6月1日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。本姓は先に藤原氏、次いで源氏を称した。家系は三河国の国人土豪松平氏。1567年2月18日(永禄9年12月29日)に勅許を得て、徳川氏に改姓。松平元信時代からの通称は次郎三郎。幼名は竹千代(たけちよ)。
●名言
 ・強敵がいなくなれば、こちらの力も弱くなる。
 ・諫言は一番槍にまさる。
 ・人の一生は重荷を背負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもえば不足なし。こころの望みおこらば、困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の墓、いかりは敵とおもへ。勝事ばかり知りて、まくることを知らざれば害其身にいたる。おのれをを責て人を背むるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。

◆高松 凌雲(たかまつ りょううん、天保7年12月25日(1837年1月31日)- 大正5年(1916年)10月12日)は、幕末 - 明治期の医師。現在の福岡県小郡市出身。名は権平。荘三郎。箱館戦争においては箱館病院を開院。その後、民間救護団体の前身と言われる同愛社を創設。日本における赤十字運動の先駆者とされる。
◆大江 健三郎(おおえ けんざぶろう、1935年1月31日 - )は、日本の小説家。愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)出身。東京大学文学部フランス文学科卒。大学在学中の1958年、「飼育」により当時最年少の23歳で芥川賞を受賞。サルトル実存主義の影響を受けた作家として登場し、戦後日本の閉塞感と恐怖をグロテスクな性のイメージを用いて描き、石原慎太郎開高健とともに第三の新人の後を受ける新世代の作家と目される。

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◆今日も週末。実家へ。
夜、洗濯をして、物置の軒下に干していると非常に星がきれいであった。この時期の星の名前がわからなかったが、子供のころ、寒い夜星の観測(?)をした記憶がよみがえった。これから、天体観測も趣味としてはおもしろいかも。