今日は樋口一葉生誕の日・・・・記念館から竜泉へ

台東区一葉記念館(樋口一葉http://www.taitocity.net/taito/ichiyo/
 メトロ日比谷線三ノ輪駅から歩いて約10分くらいの所、台東区竜泉3丁目に「一葉記念館」がある。一葉が居をかまえ、代表作「たけくらべ」の舞台となったのが龍泉寺町である。「一葉の文学業績を永く後世に遺したい」という龍泉寺町の人々の熱意に動かされ、台東区が昭和36年に一葉記念館を建設した。女流文学者の単独文学館としては我が国初のものだそうだ。現在の記念館は平成18年にリニューアルされたものである。3階建ての近代的な立派な記念館で、館内もきれいで、なかなか見やすく展示している。 2階の展示室では、一葉の出生から少女時代、歌塾「萩の舎」の時代、戸主として一家を支え小説家をめざした時期、龍泉寺町の雑貨店時代、多くの名小説を生み出した「奇跡の14ヶ月」、24歳8ヶ月での死去 と 順を追って彼女の生涯を振り返るように展示されている。
 樋口一葉明治維新の直後の1872年生まれで、同年生まれには、短歌の与謝野晶子、国文学の佐々木信綱らがいる。晶子は太平洋戦争のさなかの1942年、信綱は戦後の東京オリンピックの前年の1963年に没している。一葉は明治時代の中葉である1896年に24歳で、あまりにも若い死を迎えている。
 一葉が住んでいた竜泉寺町の大音寺通りの地図が目に入った。荒物や駄菓子を商っていた長屋の自宅の右隣は、酒屋、魚屋、床屋、たび屋、いも屋などがあり、左隣には人力宿屋、建具屋、おけ屋、たばこ屋、質屋などが並んでいる。向かいは下駄屋、たび屋、豆腐屋、傘屋、だがし屋、筆屋、べっこう屋など。この大音寺通りの先にお歯ぐろどぶがあり、その先に遊郭で有名な吉原があった。糊口の文学から脱して生活を支えるために、商いをすることを決心する若い一葉は友人の目に届かないこの場所を選んだ。貧しさのために勉学や優れた才能を充分に生かせない社会に不条理を感じた。
 一葉は利発で小学校高等科第四級を首席で卒業しているが、「女が学問を身につけるのは好ましくない」という母親の強い反対で進学を断念している。「死ぬ斗悲しかりしかど、学校は止になり」と日記に記している。後に一葉は、私の学校は歌塾「萩の舎」と東京図書館でしたと語っている。中島歌子の萩の舎では、上流階級の娘が多く、下級官吏の娘で古着をまとった自分が最高点をとったなどと「一葉日記」にも記されている。歌子の助教を務めるまでになっており、一葉は短い生涯で4千首の和歌を詠んでいる。明治20年の発表記念会の写真では、細おもての一葉の顔を見ることができた。
 父や長男を失った樋口家は、55歳の母、32歳の姉、23歳の次兄を養う戸主に17歳の一葉をたてる。萩の舎で4つ上の姉弟子だった三宅花圃が書いた処女小説で、原稿料が33円20銭だったことを知り刺激を受け、貧しい一葉は小説を書くことに興味を持った。一葉は、家族の生活を支えるために小説を書く決心をし、朝日新聞の小説および雑誌担当記者だった半井桃水に師事する。桃水の指導を受けたが、二人の仲をうわさするものもあり、一葉の方から絶好の手紙を送っている。その手紙の文面も掲示してあった。一葉の大事な恋だったのではないだろうかと不憫に感じた。この記念館には友人、恩師などへあてた一葉の手紙が多く展示されている。「私は生まれつき不調法で有り難いことを有り難いように言葉にも出せず、筆を執っても同様でただ心の中で思って居るだけなのでございます」と三宅花圃に書き送っている。それぞれに墨で書かれた手紙と、現代語訳があり、若い一葉の苦しみ、悲しみ、こころの動きがそのまま伝わってくるようだ。本名の奈津、一時用いていた夏子、そして小説「闇桜」から一葉というペンネームを使い始める。インドの達磨大師が中国揚子江を一葉の芦の葉に乗って下ったという故事に因んだものだ。浮世の波間に漂う舟という意識を持っていて「達磨さんも私も“おあし(銭)がない”」としゃれていたという。
 明治27年12月の「大つごもり」、28年1月の「たけくらべ」、4月の「軒もる月」、5月の「ゆく雲」、8月の「うつせみ」、9月の「雨の夜、月の夜」、9月の「にごりえ」、12月の「十三夜」、29年1月の「この子」、1月の「わかれ道」、1月には「たけくらべ」完結、2月の「裏紫」と一気に名作を世に送っている。まさに「奇蹟の十四ヶ月」(和田芳恵)である。擬古文による最後の作家といわれる一葉の「たけくらべ」は森鴎外が絶賛したのをはじめ、正岡子規らからも評価され、女流作家として華々しい活躍をする。しかし、一葉は文名があがることへの恐れと戸惑いも感じていたらしい。一葉は、「たけくらべ」完結から1年も経たない明治29年11月23日、肺結核で24歳で帰らぬ人となった。天寿を全うしていたら、どのような作品を書いたのだろうか。
 ◆そして一葉記念館から竜泉・千束へ。酉の市発祥の鷲神社、旧吉原・弁天池跡、吉原神社、吉原、見返り柳の碑、桜肉鍋の中江から山谷へ。
 吉原は、江戸時代以降、公許の遊女屋が集まる遊廓があった地域で、東京都台東区に1966年まで存在していた地名である。台東区新吉原江戸町一丁目、新吉原京町一丁目…などの名があった。現在は住居表示の実施により、台東区千束三丁目、四丁目になっている。日本一のソープランド街としても知られる。近隣には日雇い労働者が集まる地域である山谷がある。山谷は静かになり、いろは商店街で労働者が飲んでいる光景を見られるが、最近は、簡易旅館から、観光客向けの旅館・ホテルがかわりつつある。江戸幕府開設間もない1617年、日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)に遊廓が許可され、幕府公認の吉原遊廓が誕生した。「吉原」の語源は遊廓の開拓者・庄司甚内の出身地が東海道の宿場・吉原宿出身であったためという説と、葦の生い茂る低湿地を開拓して築かれたためという説がある(葦=悪しに通じるのを忌んで、吉と付けた)。いずれにせよ、徳川家康の隠居地である駿府城城下に大御所家康公認の公娼があり、そこに七カ丁もの広大な面積を誇る遊郭があった。吉原はその内五カ丁を大御所家康亡き後駿府から移したのが始まりである明暦の大火(1657年)で日本橋の吉原遊廓も焼失。幕府開設の頃とは比較にならないほど周囲の市街化が進んでいたことから、浅草田んぼに移転を命じられた。以前の日本橋の方を元吉原、浅草の方は正式には新吉原(略して吉原)と呼ぶ。江戸城の北に当たるところから「北国(ほっこく)」の異名もある。
 
(参考 台東区文化ガイド http://taito-culture.jp/home.html 
    台東区文化施設 http://www.taitocity.net/taito/zaidan/index.html

<今日のニュース>
◆GWにお箱根で偶発地震 きのう気象庁も現地調査。
 人気観光地・箱根町大涌谷で火山性群発地震が発生している事が分かった。きのうは気象庁の職員が現地を訪れ、箱根山の地表温度などを測定したが特に異常はなかった。一方、箱根山地震を観測している神奈川県温泉地学研究所の竹中潤研究課長は「直ちに噴火するおそれはない」としている。
神奈川県や箱根町などは今年3月に箱根山噴火を想定した避難誘導マニュアルを発表。これらの背景には御嶽山の噴火がある。活火山の異常は箱根山だけではなく、福島・吾妻山で基準値を超える火山性ガス濃度が測定され、磐梯吾妻スカイラインが通行止めになった。福島地方気象台によると、原因は火山活動の活発化ではなく、観測した場所にたまたま火山ガスが溜まっただけだとう。また蔵王でも火山性地震が発生し、仙台管区気象台は火口周辺警報を発表した。箱根・大涌谷付近の群発地震について、神奈川県温泉地学研究所の竹中潤氏は「箱根が活火山という証拠」と語った。

<5月2日生まれの先人の言葉>
徳川秀忠
 ・人を用いるに過失をもってこれを棄(す)つるなかれ。よろしくその自身を許すべし。
●樋口 一葉
 ・分けのぼる道はよしかはるとも、終には我も人もひとしかるべし。(のぼっていく道のりはたとえ違っても、最後にたどりつくところは、自分も人も同じだろう)
 ・色に迷う人は迷えばいい。情に狂う人は狂えばいい。この世で一歩でも天に近づけば、自然と天が機会を与えてくれるだろう。
●松本望(音響メーカーのパイオニア創業者)
 ・まったくの新製品なのだから、売れなくて当たり前だ。あわてるな。
 ・社員の中には知恵がある人間がたくさんいる。そういう人たちから自由さ、創造の喜びを奪ってはいけない。無鉄砲なくらいのチャレンジをさせなくては企業の若さは保てない。

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<今日の雑感>
・休み初日、昨日から風邪気味で、鼻水と咳がでている。薬局で薬を購入。休み中はおとなしくしているしか方法がないかも。