両国を歩く。

◆コース案内
 ・両国駅西口⇒横綱通り⇒回向院⇒吉良邸跡⇒両国公園勝海舟生誕地跡⇒ひがしん北斎ギャラリー⇒錦戸部屋葛飾北斎生誕地⇒野見宿禰神社⇒緑二丁目公園津軽上屋敷跡⇒山岡鉄舟生誕地跡⇒勝海舟住居の地跡⇒津軽稲荷神社⇒大横川親水公園⇒能勢妙見堂法恩寺錦糸町駅北口

 ・両国駅
 江戸期には「御竹蔵」の地でした。「総武鉄道」という私鉄としてスタートした。明治27年(1894)7月の市川-佐倉間の開業に始まり、同年12月には本所(今の錦糸町)-市川間が開通。続いて明治30年(1897)6月には路線は銚子にまで達している。以後の路線は複線の高架式にせよという条件がつき都心部への乗り入れ計画に多大な費用がかかるため、延長された路線は両国橋(今の両国)-本所間にとどまった。この間の路線は赤レンガ積みの堂々たる日本初の高架鉄道が開通され明治37年(1904)4月5日開業した。この時ターミナルとして出来たのが今の両国駅なのである。明治40年(1906)9月、総武鉄道は国有化された。理由は千葉方面に旧日本軍の軍事施設が多くあり、そのため国策として輸送力の確保と強化をすべしという軍の意向があり輸送力の強化で本線は複線化された。当時の鉄道建設では複線化が行われているのは珍しい。国有化後の昭和7年(1932)7月、新たな区間が開業した。両国-御茶ノ水間が始めから電化されて延長をみた。これにより路線は中央線と繋がり、電車の直通運転が開始された。総武本線を千葉から先へ直通する列車は両国からとなり、両国駅はずっとターミナルとして定着することになった。現駅舎正面は、震災後の建設である。
 ・回向院
 阿弥陀如来を本尊とする、明暦3年(1667)の大火の後、幕府は本所牛島新田の60間四方の地に約108,000人ともいわれる書士者の遺体を埋葬し、塚が築かれた。さらにその菩提を弔うために芝増上寺より23世遵誉上人に法事を修行された。遵誉はここに一宇を営み、その-後小石川智光寺2世信誉上人が当地に移住して開山となった。遵誉は開基とされる。万治元年間(1658-61)には小塚原縄手に別寮の回向院を経て、同年には隣接する小塚原刑場も当院持ちとなった。また安政地震の犠牲者も多数当寺に葬られた。大正12年(1923)の関東大震災による火災で境内の堂宇は灰燼に帰し、その後再建されたものの昭和20年の東京大空襲により再び焼失、第二次世界大戦後再建された。宝永2年造立の銅像阿弥陀如来像、延宝3年(1675)頃信誉により建立された石造明暦大火横死者供養塔は都指定文化財。墓地には天保2年(1831)に刑死した鼠小僧次郎吉の墓などがある。
 ・鼠小僧次郎吉
 盗んだ金を貧乏人たちにバラまいて「義賊」と呼ばれたといわれる大泥棒・鼠小僧次郎吉天保3年(1832)5月8日に捕縛されました。(5日説あり)次郎吉は寛政9年(1797)の生まれといわれます。歌舞伎の中村座の木戸番の長男で建具職人をしていましたが、バクチで身を持ち崩し借金に追われて、無宿人となり、1823年頃から武家屋敷に泥棒に入るようになった。
 ・吉良邸跡
 30坪(約97㎡)の小さな公園は、元禄15年(1702)、赤穂浪士が討ち入りをかけた吉良上野介義央の屋敷跡の一部でした。高家の格式を表す白い「なまこ壁」長屋門造りに囲まれている。当時の敷地は2557坪(約8400㎡)、内側の壁面に掲示された吉良邸の図面を見ると、その広大さが感じられる。公園内には吉良邸にあった稲荷が遷座(せんざ)され、上野介の首を洗ったと伝えられる井戸が残っています。また小林平八郎、清水一学など吉良家家臣追慕の碑もある一方、浅野家家来口上書や大石内蔵助以下36名の署名親類書など、赤穂浪士関係のものも掲示されています。
 ・勝海舟生誕地跡 両国公園
 幕末の混乱期、幕臣としで江戸を戦火から救うという大任を果たした勝海舟は、文政6年(1323)、この地、父小吉の実家男谷家で生まれ、7歳まで育った。少年時代は旧本所入江町(緑4-24)で過ごし、浅草新堀端の島田道場で剣術を習い、向島弘福寺で禅の修行をしでいます。小吉は、石高100俵無役の御家人で、生活は苦しかったようです。23歳のとき本格的に蘭学を学ぶため、赤坂に転居するまで本所で暮らした海舟です。明治32年(1399)77歳で病没。
 ・榛馬場跡 「榛の木稲荷社」
 いつ頃造られたかは不明ですが、明治の初めまで、このあたりに馬場がありました。東西約185m南北約22mの広さで馬場を囲む土手に大きな榛があったので「榛馬場」と呼ばれていました。本所に住む武士たちは、この馬場で弓馬の技を磨きました。馬場の傍らに祀られていたのが「榛稲荷神社」です。天保8年(1837)に亀沢町の若者が奉納した木造朱漆の瓶子(徳利)一対が今も保存されています。
 ・ひがしん北斎ギャラリー
 東京東信用金庫 本店・両国店 営業地域 墨田区を中心に千葉県・埼玉県の一部を営業範囲としている。新店舗建設に合わせて「ひがしん北斎ギャラリー」を開設した。北斎生誕の地、「南割下水」に近く北斎の作品が展示されている。『東京東信用金庫「ひがしん北斎ギャラリー」建築空間デザイン』として第49回日本サインデザイン賞」(SDA賞)に入選をしました。現在、北斎の作品が鑑賞できる場所になっています。
 ・錦戸部屋
 大相撲本場所の仕切りの際に多くの塩を撒くので人気の水戸泉の部屋。2000年(平成12年)9月場所限りで引退した高砂部屋(小結・富士錦)所属の元関脇・水戸泉は、年寄・錦戸を襲名して高砂部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、2002年(平成14年)12月1日付で高砂部屋から分家独立して錦戸部屋を創設した。まだ関取はいないが数々の個性派力士がおり、四股名に出身地を入れることが特徴である。水戸泉四股名は郷里の水戸市から「水戸」を、偕楽園の吐玉泉の様に「枯れる事無く湧き出る泉の如くに番付が上がるように」との願いと期待を込め、本名の姓である小泉をもじり 五代目高砂親方(46代横綱朝汐)が命名した。(錦戸部屋HP)
 ・八角部屋(第61代横綱北勝海
 北海道広尾小学校の卒業文集に「将来は相撲取りになって、芝生のある家を建てる」という夢を書いた。14歳で親元を離れ、九重部屋に入門。早朝から稽古場で四股を踏み、それが終わると中学校へ通う日々を送る。1979年春場所初土俵。19歳の83年春場所新十両昇進。同年秋場所で新入幕を決める。新入幕から所要わずか2場所で小結に昇進。三役に定着するとともに、三賞の常連となる。立ち合いでぶちかまし、突き押しに徹するだけではなく差し手からの寄りなど、馬力にスピードや技能も兼ね備えた取り口。なにより、闘志を全面に出し、最後まであきらめない気迫あふれる相撲でファンを魅了した。西関脇だった86年春場所で史上初めて5大関を破り、13勝2敗で初優勝を飾る。同年名古屋場所後に大関昇進。しこ名を保志から北勝海に改名した。87年春場所で2回目の優勝を飾り、翌場所は優勝を逃すも13勝2敗の好成績を収め、23歳で横綱昇進を決めた。横綱昇進時の口上は「横綱の名を汚さぬよう、これからも一生懸命稽古をし、努力します」。これは親方の歩んできた相撲人生そのもの。誰よりも稽古をし、それを自信に変えて土俵に上がった。無類の稽古熱心と、兄弟子である横綱千代の富士の胸を借りた猛稽古は語り草になっている。幕内力士 隠岐の海八角部屋HP)
 ・葛飾北斎生誕地
 1760年江戸本所割下水(墨田区)に生まれた。幼名は時太郎。後に鉄蔵。江戸時代の浮世絵師である。森羅万象何でも描き、生涯に3万点を越す作品を発表し、版画の他、肉筆にも傑出した。さらに読み本挿絵芸術に新機軸を出したこと、北斎漫画をはじめ絵本を多数発表して毛筆による形態描出に敏腕を奮い、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところが大であった。葛飾派の祖となり、ゴッホなど印象派絵画の色彩にも影響を与えた。代表作に「富嶽三十六景」「北斎漫画」などがある。
 ・野見宿禰神社
 野見宿禰垂仁天皇の 7月 7日、天覧のもとで當麻蹴速と力比べ、宿禰は蹴速のあばら骨を蹴折って勝ち、これにより日本相撲の始祖として、崇め奉られてきた人物である。野見宿禰神社は、初代高砂親方の尽力によって、明治17年(1884)に創建されました。相撲の神と言われる野見宿禰を祀っています。 ここはもと陸奥弘前藩津軽越中上屋敷であり、当時はその隣に高砂部屋がありました。境内には歴代横綱の石碑が二基並んでいます。
 ・津軽上屋敷跡(緑二丁目公園)
 陸奥(むつ)弘前藩10万石(外様)初代藩主:津軽為信(ためのぶ)安政三年時(1856) 藩主十一代 順承(ゆきつぐ)官名 左近将監
「本所に過ぎたるもの二つあり、津軽屋敷、炭屋塩原」といわれるほど広い敷地でした。屋敷内の火の見櫓は本所七不思議の一つでもあります。
 ・本所七不思議 津軽の太鼓
 昔から火事を知らせるために大名家の火の見櫓では版木を打つのだが、太鼓を打つことができるのは津軽家だけと決まっていた。 なぜ津軽家だけがその太鼓を打つことを許されていたのか、その理由は誰も知らない。 また、その太鼓は時を告げるための太鼓でもあったともいわれている。
 ・江川太郎左衛門屋敷
 伊豆韮山代官・江川氏の江戸屋敷がありました。江戸時代は幕府のもとで代官職を世襲していました。その支配地は武蔵・相模・伊豆・駿河・甲斐など広範囲にわたっていました。江川家の当主は代々、太郎左衛門という名前を名のりましたが、坦庵は、代官として有能であったばかりでなく、外交、教育などさまざまな分野で活躍し、対外的な危機感が高まったこの時代、特に海防問題(*韮山反射炉、お台場の設置)に関して数多くの業績を残しています。ジョン万次郎の身元を引受アメリカの見聞や語学を広めた。本所の江川家の屋敷は、明和8年(1771)ころには、本所三ツ目永倉町(現・緑4丁目、亀沢4丁目)にありましたが、坦庵の祖父・江川英征(ひでゆき)のころ、天明元年(1781)に本所南割下水(現・北斎通り)の津軽藩上屋敷門前(現・亀沢1丁目)に移転し、以後、第36代の江川坦庵(英龍)(1801−1855)没後の安政3年(1856)までこの場所にありました。現在、緑町公園隣のこの地には「江川太郎左衛門終焉の地」の地。
 *韮山反射炉伊豆の国市中字鳴滝入に現存している反射炉の遺跡。日本に現存する近世の反射炉は、この韮山反射炉と萩反射炉山口県萩市)のみであるため貴重な遺構とされる。2015年には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」ユネスコ世界遺産文化遺産)として正式登録された。
 ・山岡鉄舟生誕地跡(墨田区竪川中学校校門 墨田区亀沢4丁目11番) 
 江戸末期の幕臣(将軍直属の家来)で剣術家、維新後に無刀流の創始者ともなり、侍従も勤めた山岡鉄舟の生家小野家が竪川中学校の正門あたりにありました。鉄舟は天保7年(1836)、御蔵奉行だった旗本小野朝右衞門高福(たかとみ)の五男として生まれ哲太郎と名付けられました。安政4年(1857)頃、槍術で知られる旗本山岡静山の妹婿となり山岡高歩(たかゆき)、号は鉄舟(本名の他につける名)を名乗りました。鉄舟の義兄ともなった槍の名手精一郎は旗本高橋家に入婿し、後に泥舟と号するようになります。勝海舟も含めてこの三人は「幕末の三舟」として知られています。慶応4年(1868)、江戸城総攻撃に先立ち鉄舟は西郷隆盛接触し、勝海舟と協力して江戸城無血開城への道を開きました。明治維新後、静岡県茨城県などで参事や県令 (知事)となり、明治4年(1871)より明治天皇の侍従として厚い信頼を得ましたが、同21年(1888)53歳で死去し、台東区谷中)の全生庵に葬られました。鉄舟は書家一楽斎としても有名ですが、区内木母寺の境内にある「三遊塚」の碑文は鉄舟(表)、泥舟(裏)の筆になります。(平成19年11月 墨田区教育委員会
 ・勝海舟住居の地跡(両国公園)
 両国公園となっている男谷精一郎の屋敷で生まれました。海舟が生まれてしばらくした後、父の勝小吉は、男谷家を出て、南割下水の天野右京、次いで出口鉄五郎の敷地に移った後、本所入江町の旗本岡野孫一郎の敷地に移りました。本所での生活では、この入江町が一番長く、8歳から23歳まで住み、地主の岡野とは深いつきあいになり、のちに海舟が妻をもらう時に、一度岡野の養女にしてから結婚しています。ちなみに海舟は、22歳の時、弘化2年(1845)に結婚しています。妻の名は民子と言い、2歳年上で、深川の芸者でした。そこで岡野孫一郎の娘ということにして結婚しました。そして、結婚の翌年海舟は赤坂に転居しています。
 ・能勢妙見堂
 安永3年(1774)能勢頼次は故郷の能勢(大阪府)から妙見大菩薩の分体を移し、下屋敷であったここに移し安置した。妙見大菩薩日蓮宗の守護神で、江戸っ子には、開運厄除けの神として信仰を集めた。震災と戦災で焼失したが昭和28年(1953)から15年を費やし再建された。
 ・勝海舟
 海舟晩年の胸像がある。海舟は子供の時、犬に噛まれて重傷となったとき父小吉は子に妙見堂に日参し水垢離して怪我の平癒と出世を祈願した。
 ・鴎稲荷
 大坂冬の陣に参戦した能勢頼次は鴎に導かれて手柄を立てた。以来妙見とともに信仰してきた。4月の大祭には、厄除黒札守が授与される。もともと外神田にあった能勢家上屋敷の鴎稲荷は狐つきに霊験ある稲荷として知られていた。表面を黒く塗りつぶした独特な札だったことから、当時は「能勢の黒札」と呼ばれた。
 ・法恩寺
 長禄2年(1458)江戸平河に創建。当時の江戸城太田道灌が日住上人に助力し一寺を建立して本住院と号したと言われる。大永4年(1524)道灌の孫、資高が父資康追善のため堂舎を造営し、寺号を平阿山法恩寺と改め、数度の移転後元禄元年(1688)に現在地に寺地を定めた。日蓮宗本圀寺(京都市)末。本尊は日蓮上人木造で日法上人の作と言われる。太田道灌供養塔(区登録史跡)
 ・オリナス
 精工舎工場跡地の再開発で平成18年営業開始。セイコー時計資料館は、東向島三丁目に移転し、現在セイコーミュージアムとしてリニューアルされている。施設は、賃貸事務所ビルの「オリナスタワー」、分譲マンション「ブリリアタワー東京」、専門店街「オリナスモール」、大型商業施設「オリナスコア」の4棟で構成されている。
 ・錦糸町駅北口
 平成5年からのJR錦糸町駅北口地区再開発により整備された。江戸期には武家屋敷が多くあり再開発で遺跡もその遺跡も発掘された。戦後は、菓子問屋が多く煩雑な街であった。
                                              (資料抜粋・墨田区すみだの史跡散歩から)

<9月18日生まれの先人の言葉>
伊藤左千夫歌人、小説家)
 ・恋の悲しみを知らぬものに恋の味は話せない。
 ・吾々が時代の人間になるのではない、吾々即時代なのだ。吾々以外に時代など云うものがあって堪るものか。吾々の精神、吾々の趣味、それが即時代の精神、時代の趣味だよ。

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