朝からパソコンの調子が悪い。

◆朝からパソコンの調子が悪い。少し、ブログの公開を中断しましょうか。まもなく江戸検定です。あと一週間です。
来月早々の江戸検定合格を目指して、1週間程度、ブログを中断します。

◆①鷗稲荷
  鷗稲荷は、錦糸町から徒歩12〜13分の距離にある能勢妙見山東京別院の境内に鎮座しています。能勢妙見山東京別院は、関西の能勢妙見山の東京における別院です。能勢妙見山東京別院は、旗本能勢頼直の本所の下屋敷に、安永3(1774)年に建立し妙見大菩薩のご分体をお祀りしたのが始まりだそうです。
 鷗稲荷は、江戸時代には、外神田にあった旗本能勢家の上屋敷に鎮座していました。能勢家の上屋敷は、切絵図をみると津藩藤堂上屋敷の東側にありますので、現在でいうと秋葉原駅の東側にあったことになります。この鷗稲荷は、狐憑きに霊験があるといわれ、ここで出される札は、表面を黒く塗りつぶした札で「能勢の黒札」と呼ばれていました。
この札は、狐に憑かれないように、あるいは憑いた狐を払う効果があるとして人気があったと「江戸の祭礼と歳事」に書いてあります。
 ②半田稲荷
 半田稲荷は、金町駅から徒歩10分程度で住宅街の中に鎮座しています。半田稲荷の創建は、和銅4年(711)とも永久年間(1113〜17)ともいわれています。和銅4年とすると1300年も前に創建されたという古い神社です。この神社が、疱瘡や麻疹に霊験があるとして広く信仰された神社です。金町は、現在では、上野からそれほどかかりませんですが、江戸時代は徒歩ですので、一日がかりだったと思います。しかし、麻疹流行のたびに多くの人がお参りしました。半田稲荷は、赤い衣装を身に付けた「願人坊主」が、赤い幟を持って鈴を鳴らしながら江戸市中を廻りました。この「願人坊主」は、「江戸の祭礼と歳事」によれば、疱瘡にかかっていない子どもがいる家の前で、いくらかの金銭で稲荷の真言を唱え、祝言を述べて踊り、病除けの一文人形を置いていく、一種の芸人だったようです。半田稲荷の境内には、願人坊主が神仏に祈願する際に水垢離した神泉遺構が残されています。井戸枠には注連縄(しめなわ)が掛けられています。周囲の石柵の柱をよくみると、市川団十郎尾上菊五郎など新富座の役者の名前も刻まれています。
 ③住吉神社
 住吉神社は江戸初期に、摂津国西成郡(大阪市)佃村の漁民が江戸に移住した後、正保3年(1646年)に現在地に創建された佃島の鎮守です。徳川家康が上方にのぼった際に、神崎川を渡れずに難渋していた時、佃村の漁師が漁船をだして助けたことから、徳川家康が江戸に入府した際に江戸に招かれて、江戸湾での漁業の特権をえたと言われています。この佃村から来た漁師たちが、正保元年に幕府から鉄砲洲東側の干潟を拝領し、その半陸地を埋め立て陸地としました。そして、故郷に因んで「佃島」と命名したと伝えられています。そして、正保3年には、佃村の鎮守であった住吉神社を勧請しています。住吉神社というとすぐに思い起こすのが、現在の大阪市住吉区にある住吉大社ですが、佃島住吉神社は、住吉大社から直接分霊を受けて勧請したのではなく、佃村の住吉神社を勧請したようです。現在、昔の佃村の住吉神社は、田蓑神社と名前を変えているようです。住吉神社は、江戸時代には「住吉明神」と呼ばれていました。「江戸名所図会」には、「住吉明神社」として次のように書かれています。
 佃島にあり。祭る神、摂州の住吉の御神に同じ、神主は平岡氏奉祀す。正保年間、摂州佃の漁民にはじめてこの地を賜りしより、ここに移り住む。本国の産土神なるゆえに、分社して、ここにも住吉の宮居を建立せしとなり。(後略)
 その祭礼は「佃祭」とも呼ばれていました。「佃祭」は、歌川広重「名所江戸百景」の「佃しま住吉の祭り」にも描かれていますし、落語に「佃祭」という演目にもあるぐらいですので、昔から有名だったのだと思います。佃祭は、江戸時代には、6月28日と29日に祭礼が行われました。これは、住吉神社が鎮座したのが正保3年の8月29日であったことによるそうです。
 また、東都歳事記によると、龍虎の獅子頭と神輿の海中渡御が有名だったようです。
 「六月二十八日 佃島住吉明神祭礼  今明日修行(神主平岡氏 、小の月は名越祓と同日なり、龍虎の頭渡す。二十九日未の刻、神輿を海中に舁き入れ奉る) (後略)」
 龍虎の頭は、現在も残されていて、住吉神社近くの展示館に展示されていて、常時見ることができます。また、広重の「佃しま住吉の祭り」をよくみると海中に神輿が向かっていく様子が描かれています。中央の幟旗の左手奥に神輿が見えます。この絵は、住吉神社の境内から海方向を見て描かれています。ですから、神輿が海に入ろうとしている場面だと思います。住吉神社の神輿は「八角神輿」と呼ばれる八角形の神輿です。

ソフトバンク日本一2連覇

<10月29日生まれの先人の言葉>
藤原咲平(気象学者)
 ・天気予報は七分の学理に三分の直観
周防正行(映画監督)
 ・好きなようにつくるといっても、「どうしたら、一人でも多くのお客さんに伝わるのか、同じ思いを共有してもらえるのか」という部分には徹底的にこだわって、自分をいじめ抜きます。昔から僕が目指しているのは、「1年に100本映画を観る人にも、1本しか観ない人にも満足してもらえる映画にする」ことです。
谷村志穂(作家)
 ・結局、いろんなものを乗り越えたり、自分がなくなるほどの衝動に突き動かされる時のコアになるのは“性”だと思います。“恋”という言葉にしてしまうと、きれいですごくあいまいなものになってしまうから。私は性を伴わない恋愛というのはあまり信じられない。恋愛している時の、痛みが快楽になるような、時空がねじれるような気持ちには、心の高まりだけではなれないと思ってる。恋愛小説とあえていいますけど、そういうものを書くときに私が一番大事にしているのは、「欲しい」っていう感覚なんです。「好き」とか「一緒にいたい」とか「会いたい」っていう表現では薄い。
堀江貴文(実業家)
 ・いまだに自分で起業するのは難しいと考えている人がいるかもしれないけど、お金の面での制約はほとんどなくなった。実際、若い人たちはネッ卜で面白いサービスを次々に送り出しています。