経済を見る「5か条の原理原則」、東京を歩く⑦「両国周辺の江戸の史跡を歩く」

◆経済を見る「5か条の原理原則」
 〈1〉情報収集をする際は時間的空白を作らない。
 〈2〉経済データは数字をもとに自分で考えて解釈する。
 〈3〉「日常の生活感覚」と合わない議論はまず疑う。
 〈4〉「世の中の空気」に安易に流されない。
 〈5〉日本の未来は「人口減・少子高齢化」を「軸」に考える。
  この5原則だけでも「経済サキ読み」に相当役に立つ。
 『トップエコノミストの経済サキ読み術』 (上野泰也著)https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784532356606

◆東京を歩く⑦・・・両国周辺の江戸の史跡を歩く
勝海舟生誕の地
 両国駅から徒歩5分くらいの場所にある両国公園内に生誕の地の碑が建っています。この場所は勝海舟の父・小吉の実家である男谷(おだに)家があった場所で、海舟はここで生まれました。子供の頃海舟は、従兄にあたる男谷精一郎(おだにせいいちろう)の直心影流の道場で剣術を学んでいました。師匠・男谷精一郎は剣の腕はもちろんのこと、人格者であったようで、試合では3本中1本は必ず相手に取らせるというエピソードが残っていて、剣聖と言われるほどの人物でした。その腕と人柄を買われ、のちに講武所の剣術師範役も務めています。海舟は7歳の時に11代将軍家斉の目に止まり、孫の初之丞(はつのじょう)の学友として大奥に住み込みで出仕することになるのですが、それまでの7年間をこの地で過ごしました。未来の将軍候補とお近づきになって将来は安泰かと思いきや、この初之丞(当時は一橋家を継いで一橋慶昌)が早世してしまい、海舟の出世の道は閉ざされてしまった。
●吉良邸跡
 勝海舟生誕の地から5分くらいのところに、おそらく両国で一番有名であろう史跡「吉良邸跡」がある。忠臣蔵で有名な吉良上野介(きらこうずけのすけ)のお屋敷跡です。元々吉良邸は江戸城の近くにあったそうなのですが、松の廊下での刃傷事件後、赤穂浪士が討ち入りをするという噂が流れ、周囲の大名たちが迷惑がったため幕府が江戸城から離れたこの地に移転させたと言われている。今は本所松坂町公園として住宅街の一角のほんの小さな敷地だけしか残っていませんが、当時は広大なお屋敷で2550坪。今の86倍もの大きさがあったそうだ。しかし、ここに上野介が住んでいたのは移り住んでから仇討ちされるまでの1年2ヶ月ほどの短い期間でした。赤穂浪士の討ち入り後、このお屋敷は幕府に没収されてなくなってしまった。現在の吉良邸跡は、昭和になってから地元の有志によって旧吉良邸の中庭にあった井戸の辺りの土地を買い戻し、東京市に寄贈して記念公園にされたそうなので、勝さんが近所に住んでいた頃には吉良邸は存在していなかったようです。
●鼠小僧も眠る 回向院
 吉良邸跡から京葉道路に出て左に少し行ったところに回向院があります。回向院は、明暦の大火(振袖火事)で亡くなった身元不明や身寄りのない人たちを弔うため、将軍家綱の指示で設けられた「万人塚」が元となっています。そのような経緯で建てられたため、回向院の理念は「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるもの全てのものへの仏の慈悲を説くもの」だそうです。回向院を出て左に行くと両国橋があります。昔隅田川には橋が架かっておらず、明暦の大火ではこちら岸に逃げられずにたくさんの方が亡くなったそうで、その後教訓を生かして造られたそうです。
 勝海舟は『氷川清話』の中で両国橋にまつわるこんな話をしている。 「おれが子供の時には貧乏で、正月の餅を用意する銭がなかった。ところが親戚から、餅をやるから取りにこい、と言ってよこしたのでそれをもらいにいって、風呂敷に包んで背中に背負って帰る途中、ちょうど両国橋の上でどうしたはずみか風呂敷が破れ、せっかくの餅がみんな地面に落ちてしまった。ところがその時はもう真っ暗だったので拾うに拾えず、ニ、三個は拾ったが、あまりに忌々しかったから橋の上から川に投げ込んでしまった。」とのこと。
●幕末三舟の一人、山岡鉄舟 生誕の地(竪川中学校正門前に「山岡鉄舟旧居跡」の案内板あり)
 両国橋を本所側へ引き返して、勝さんと同じく本所で生まれ育った幕末三舟の一人、山岡鉄舟の生誕の地を目指す。北斎通りを錦糸町方面に歩くこと約20分。現在の竪川中学校がある場所に山岡鉄舟の生家、小野家がありました。旗本小野家の五男として生まれた鉄太郎(のちの山岡鉄舟)は、10歳の時、父が飛騨郡代として飛騨高山に赴任するまでの約10年間をこの地で過ごしました。
 幕末三舟のもう一人でもある勝海舟の旧居跡は、山岡旧居跡から南に5分ほどの超至近距離。勝は、男谷家で7歳まで過ごし、9歳までの2年間大奥に出仕して、その後はこの地にあった旗本岡野孫一郎の敷地内に住んでいた。

<今日の江戸検>
赤坂氷川神社
 由緒・・・創立の起源は、古い書物によると、天暦5(村上天皇 951)年武州豊島郡人次ヶ原(俗称…古呂故ヶ岡・赤坂4丁目一ツ木台地)に祀られた。これよりおよそ百年後の治暦2(後冷泉天皇 1066)年、関東に大旱魃が発生、降雨を祈るとその霊験(しるし)があり、以来よく祭事が行われた。
 江戸時代、幕府の尊信は篤く、八代将軍 徳川吉宗公が享保元(1716)年将軍職を継ぐに至り、同14(1729)年に老中岡崎城水野忠之に命じ、現在地(豊島郡赤坂今井台)に現社殿を造営、翌15(1730)年4月26日に、一ツ木台地から現在地への遷宮が行われ、28日に将軍直々の御参拝があった。以後十四代家茂公まで歴代の朱印状(※港区文化財)を下附され、一層の御神徳を高め、開運・厄除・良縁の鎮守神として尊崇を深められた。
 *『江戸名所記』によると―「むかし人王62代村上天皇の御宇天暦年中に近江国甲賀の郡に蓮林僧正として天台四明の法灯をかかげて一念三千の観行をこらす上人あり、東国修行のついでこの所に一夜をあかしける、その夜の夢にいづくともしらず老翁1人来りていわく、我はこの土中にうづもれて久しく年をつもれるものなり、いそぎ掘出して安置せしめばこの所の守護神となるべし、その埋もれし所には奇瑞あるべしと見て夢はさめにけり。
 上人奇異のおもひをなしそのあたりをめぐるに一所の壇上に金色の光りあり、いそぎほりてみれば十一面観音の形像おわします。やがてそのところに社をたてて安置せしめらる、一木村の観音と名づけて諸人まいりつどう。きわめて利やくおおし。
 蓮林遷化の後治暦2年ひのえ午にあたって関八州のうち夏より秋にいたり大にひでりす。万民うれえをいたしけるに、当所の土民このやしろに雨をいのるに、たちまちに洪雨ふりくだって五こくゆたかにみのり民よろこびのまゆをひらきけり、これ雨をくだして川をなし万民をたすけ賜る、故にすなわち神とあがめ、氷川の明神と名付けたてまつる。神事は6月15日や、今に及びなおこの神徳たかくおわしまして諸人の願望をかなえ賜うぞ有がたき。
 くみてしる 氷川の宮の 神こころ めぐみあらたに世をうるうとは(江戸鹿子)」