高田馬場と流鏑馬

<今日のニュース>
●年またぎお騒がせ動物 その後。
 兵庫・西宮市に姿を現した猿は、捕獲の網をかいくぐり逃走。出没場所は住宅街、近くには保育園などもある。警察は餌の入った罠を仕掛け様子を見続ける予定。大阪・泉南市でも猿が住宅街を走り回り、正月休みで規制していた男性の脚に噛み付いた。周辺では猿の被害が相次ぎ、去年10月から10人以上がけが。警察や市役所職員が見回りするも捕まらず。愛媛・新居浜市では猪が住宅街に出没、柵を曲げ、玄関のガラスドアを突き破るなど暴走、偶然通りかかった男性と激突、顔などをかみつかれ全治2週間のけが。

<今日の江戸検>
高田馬場流鏑馬
 江戸初期の慶長年間に越後高田藩松平忠輝(家康の第六子)の生母である茶阿局の住む高田御殿が牛込供養塚村(喜久井町)の感通寺にあった。浜松城時代の家康が鷹狩の際に仇討を直訴したことが縁で側室となった茶阿局が後の「高田の君」である。高田御殿の近隣に神田上水神田川)を望める景勝地の高台に遊覧別荘地を設けていた。
 高田馬場の右手に早稲田大学がある。馬場から右下に早稲田通りを下ると穴八幡宮、十字交差点先が東西線早稲田駅、その先のY字路に見える馬場下横町に夏目漱石の生家跡碑がある。
 三代将軍家光は、寛永13年(1636)1月、穴八幡宮の北西にある高田御殿別荘地に馬場を造るよう命じた。いわゆる高田馬場で8月2日に完成した。8月19日に家光は落成した新馬場の馬揃いに臨み、諸士の馬芸を観る。この馬場は追廻二筋で長さ東西に6町(約654m)、幅南北に30余間(約55m)旗本の弓馬術調練場で、歴代将軍の流鏑馬奉納馬場として用いられた。
 流鏑馬とは、馬を走らせながら、馬上から鏑矢で木製方形の的を射る戦国期の武技である。その起源は古く欽明天皇の時代(540〜571)に、天皇宇佐八幡宮に武運を祈願された際に行われたのが始まりと伝えられている。高田馬場流鏑馬は、享保13年(1728)八代将軍吉宗が疱瘡に罹った世嗣の平癒を祈願して穴八幡宮に復興奉納した流鏑馬を起源とする。元文2年(1737)八代将軍吉宗は古式の流鏑馬に新たな流儀を定め、翌年2月、世嗣の長男竹千代(十代将軍家冶)の誕生祝いと疱瘡平癒を祈願した流鏑馬が穴八幡宮に奉納された。以来、歴代将軍家の厄除け祈願や若君誕生の祝いに高田馬場で射手十六騎による流鏑馬が奉納された。
 高田馬場の北に風除けの松並木が植えられ、鬼子母神に向かう参拝客や馬場見物客の休憩所となる馬場ヶ茶屋8軒が軒を並べ茶屋町通りと呼ばれた。また、元禄7年(1964)茶町通りに面した馬場の一角で堀部武庸(安兵衛)が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をした場所で、現在、水稲荷神社にその顕彰石碑がある。