義民六人衆

◆今一歩のこともあり、懇親会のお誘いを断り、定時に帰宅。用心、用心ですね。

◆義民六人衆
・東京大田区の善慶寺にある「義民六人衆墓」。領主の旗本・木原氏の過酷な年貢収奪に対し、困窮した新井宿村民の代表6人が4代将軍家綱への直訴を計画するが、決行直前に漏れ、木原氏により斬首。極秘に供養された6人の戒名は、墓石の裏面にあった。
・延宝5年1月11日(1677年。 339年前の1月11日)、 江戸麹町一番町の木原氏(新井宿村領主)の屋敷で、新井宿村のリーダー6名が首を切られたといわれている。6名は村の窮状を4代将軍徳川家綱に越訴するために、14日前の12月28日、熊野神社で誓いの杯を交わしたあと出立。正月に家綱が上野東照宮に参拝に現れるまで浅草馬喰町二丁目の百姓宿「武蔵屋」に潜伏していた。登城する老中、または勘定奉行あたりに訴えようとしたとする説もある。ところが、村人から木原氏へ密告があり、1月2日、木原氏の手により6人は捕らえられ、殺されたそうだ。越訴は領主の政治上の落ち度と考えられ取り潰しや減封の理由になったので、木原氏は幕府に知られないよう内密に行ったのでしょう。事件の発端は、16年前の寛文元(1661)年、木原氏が行った年貢の増徴にあると言われている。突然夜中に検地したそうである。あぜ道や入会地まで課税対象になりました。隣の 不入斗 いりやまず 村では幕末までほとんど年貢率が変わらなかったのに、新井宿村では1.5倍にもなったといわれている。延宝元年(1673)年には干ばつがあり、翌延宝2(1674)年には多摩川(六郷川)の氾濫もあり、村民の窮乏は極みに達したようだ。 同年9月、村のリーダーは木原氏に 「十九ヶ条の訴状」 を差し出して年貢減免を願い出た。しかし、黙殺。 翌年も同様の訴えをしますが、同じでした。そして、村のリーダーたちは、将軍への越訴という非合法手段を決意したとされている。越訴して殺された6人は、名主の酒井権左衛門(38歳)、年寄の鈴木大炊之助(47歳)、平林十郎左衛門(55歳)、間宮太郎兵衛(39歳)、酒井善四郎(53歳)、・百姓代の間宮新五郎(47歳)。名主・年寄・百姓代は村方三役と呼ばれて村政を担う、いわば村のリーダーです。名主の酒井などは約10万㎡(正方形でいうと1辺310mほどの広さ)の土地を所有する富豪でした。現在の日枝神社(山王一丁目)は酒井の庭内社だったといわれている。そういった自分は生活に困らない百姓が、その他の苦しむ百姓のために命がけのことをしたようだ。6名は木原氏に殺され、彼らの家族も、ある者は殺され、ある者は自害し、ある者は逃亡したといわれている。6名は、密かに讃えられ、 「義民六人衆」として今に語り継がれている。