いつもの週末ですが。桜満開の浜松城(天守閣)。

◆朝夕はともかく日中の陽気はまさに春ですね。明日も天気は良さそうですね。いままで、寒い、寒いと言っていたが、陽気も「春」と「初夏」のせめぎ合いが始まってくるのでしょうか。 

◆桜満開の浜松城天守閣)
 浜松城(はままつじょう。近代以前は旧字体で「濱松城」と表記された)は静岡県浜松市中区にある日本の城跡。野面積みの石垣で有名。歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世したことから「出世城」といわれた。
 元亀元年(1570年)に家康は武田信玄の侵攻に備えるため本拠地を三河国岡崎から遠江国曳馬へ移した。岡崎城は嫡男・信康に譲られた。当初は天竜川を渡った見付(磐田市)に新たに築城をするつもりであったが、籠城戦に持ち込まれた際天竜川により「背水の陣」となることから、曳馬城を西南方向に拡張した。その際、曳馬という名称が「馬を引く」、つまり敗北につながり縁起が悪いことから、かつてこの地にあった荘園(浜松荘)に因んで城名・地名ともども「浜松」と改めた。元亀3年(1573年)、武田信玄がこの城を攻める素振りを見せながらこれを無視するような行軍をして家康を挑発。挑発された家康は浜松城から打って出たが、武田軍の巧妙な反撃に遭って敗北を喫した(三方ヶ原の戦い)。 三方ヶ原の戦いでは徳川軍の一方的な敗北の中、家康も討ち死に寸前まで追い詰められ、夏目吉信や鈴木久三郎を身代わりにして、成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛といった僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰った。この敗走は後の伊賀越えと並んで人生最大の危機とも言われる。浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる空城計を行う。そして絵師を呼んで顰像(#顰像(しかみ像))を描かせると、湯漬けを食べてそのままいびきを掻いて眠り込んだと言われる。この心の余裕を取り戻した家康の姿を見て将兵は皆安堵したとされる。浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は、空城の計によって警戒心を煽られ城内に突入することを躊躇し、そのまま引き上げたといわれる。改修は天正10年(1582年)ごろに大体終わったが、その4年後の天正14年(1586年)、家康は浜松から駿府に本拠を移した。家康の在城期間は29歳から45歳までの17年になる。
 家康以後、天正18年(1590年)からは秀吉の家臣堀尾吉晴と、その次男堀尾忠氏が合わせて11年間在城したが、関ヶ原の戦いの功績で出雲国富田に移封。以後は、一時徳川頼宣の領地だった時期を除いて、譜代大名各家が次々に入った。近世には天守は存在しなかったようで絵図にも記載がない。本丸にあった二重櫓が天守代用とされていた。浜松城明治維新後に廃城となり破壊された。城址は1950年に「浜松城公園」となり、1958年に鉄筋コンクリート製の復興天守が再建された。復興した天守の東側石垣あたりに本丸があったようであるが、仔細は不明。1959年には浜松市の史跡として指定された。 現在の天守閣は資料館として使われており、家康を初めとした当時のゆかりの品々を見学できるほか、城の周辺は緑が溢れ、今まさに、桜の名所として花見客で溢れ返っていた。
・出世城
 家康は浜松城を居城として征夷大将軍への足掛かりとしたから「浜松城」が「出世城」として、後世あやかられている。岡崎城浜松城駿府城江戸城駿府城徳川家康は竹千代、松平元康時代を含め居城としている。浜松城では武田信玄の上洛に対し、三方が原で迎撃、惨敗、敗走しますが、負け戦さでも名をあげる。「男は負けると思った勝負でもしなければいけない時があります」慎重居士の家康がギャンブルした数少ない戦いである。
 また、一般的には数々の浜松城主が幕府の重役に出世した例が多いことから出世城とも呼ばれたともされている。例えば、水野忠邦肥前国唐津を治めていたが、長崎の警備があるため一定以上の出世が困難であった。しかし、忠邦は幕閣として参画するために日頃から幕府要人に接待・賄賂攻勢をかけていた。幕府は事件を起こした正甫を左遷し、忠邦を浜松へ移した。忠邦は寺社奉行に出世し、更に文政11年(1828年)には老中となった。忠邦はその後の天保の改革で躓き、続く政争で失脚し長男・忠精の代になって出羽国山形に移された。江戸265年の間に浜松藩の藩主は22人、約12年弱毎に藩主が変わっている。