第5代将軍綱吉。

<江戸学>
◆第5代将軍綱吉 
 5代将軍綱吉は、3代将軍家光の4男徳松として、正保3年(1646)1月江戸城に生まれる。母は側室の桂昌院である。承応元年(1652)徳松は館林藩主となり、白山御殿と呼ばれた下屋敷(現小石川植物園)で幼少期を過ごす。寛文元年(1661)所領25万石の上野館林藩主となるが、家臣の8割とともに江戸の神田御殿に在住した。延宝8年(1680)5月、4代将軍家綱に後継ぎがなく、兄綱重もすでに亡くなっており、綱吉が家綱の養嗣子として江戸城二ノ丸に迎えられた。同月に家綱が40歳での急死に伴って5代将軍の座に就いた。綱吉は諸藩の政治を監視するなど積極的に政治に参画し、家綱時代に没落した将軍権威の向上に努めた。
 元禄4年(1691)綱吉は学問の中心地として湯島聖堂を建立した。支配者は徳で天下を治めると説いた儒教を熱心に学んだ。さらに儒学の影響で歴代将軍の中で最も尊王心が厚く、皇室領や公家の所領を増額、御陵66陵を巨額を投じて修復した将軍で知られる。後に赤穂藩浅野長矩を大名として異例の即日切腹を命じたのも、朝廷との儀式を台無しにされたからに他ならない。このように綱吉が儒学を重んじる姿勢は、新居白石、荻生徂徠山鹿素行らの学者を輩出し、儒学の隆盛を極めた。また綱吉は儒学の孝に影響されて、母・桂昌院従一位という前例のない高位を朝廷から賜った。

桂昌院(お玉の方)
 五代将軍綱吉の生母である桂昌院は、三代将軍家光の側室お万の方の腰元であったが、家光に見初められ側室となって徳松(綱吉)を生む。もとは京都西陣の八百屋の娘お玉さん。その成功ぶりから「玉の輿に乗る」の語源とされ、生家に近い自ら寄進再建した今宮神社には玉の輿のお守りがある。

●護持院ヶ原
 将軍家の祈祷寺である筑波山知足院の住職となった隆光僧正は急速に綱吉の帰依を得て、元禄元年(1688)に湯島の知足院を神田錦町に移し、隆光を開山として護持院と改称した。しかし、享保2年(1717)火災の延焼で5 万坪の大寺院は焼失し、音羽護国寺の境内に移された。外濠に面した広大な跡地は日除明地となり護持院ヶ原と呼ばれた。

●七五三の始まり
 綱吉の長男徳松の健康を願ったのが七五三の始まりである。11月15日である。しかし、徳松は4歳で夭折したため母の寵愛していた隆光僧正や亮賢僧から次のような進言があった。綱吉公には男児が生まれず、唯一誕生した徳松は早世し、次の子供が生まれないのは、前世で殺生した報いである。現世で生き物を大事にすれば前世の罪障は消滅すると諭された。戌年生まれの綱吉は、「生類憐みの令」を発令したとされている。

護国寺
 護国寺は、元禄10年(1697)綱吉の母・桂昌院の願いで、深く帰依する亮賢を僧正とする真言宗の寺院を建立した。護国寺は、幕府の祈願所としての成り立ちで檀家を持たないため、明治維新後に経済的困窮した。明治6年(1873)東半分の2万5千坪を皇族墓地(豊島岡墓地)となり、西側の5千坪は陸軍墓地となった。2万坪となった境内には、三条実美、山形有朋、大隈重信大倉喜八郎など多くの著名人の墓所がある。

寛永寺根本中堂
 元禄11年(1698)9月綱吉によって上野竹の台に寛永寺の根本中堂が建立された。造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀之国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門である。寛永寺の中心をなす根本中堂は創設から70年後に建てられ、その威容を誇っていたが、上野戦争の兵火で灰塵と化した。その跡地は東京国立博物館前の噴水池に位置する。
 <参考> 「寛永寺から上野公園を歩く①」(http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20160629#p1

 宝永元年(1704)後継ぎの6代将軍は、兄・綱重の子で甲府徳川家の綱豊(家宣)に決めた。その後、綱吉は宝永6年(1709)に63歳で没した。綱吉は前半には善政を行い「天和の治」と称えられたが、後半には貞享4年(1687)に発令された「生類憐みの令」で、それは殺生を禁止するという過度な動物保護法であり、民衆を苦しめた将軍として知られる。しかし、この生類憐みの令によって、姥捨てや捨て子などの悪習を根絶すべく、命あるものを慈しむ日本人の儒教的な道徳心を広めたのが史実のようだ。その一方、綱吉の時代は元禄文化が花開き、江戸時代の中で最も繁栄した時期であった。

徳川綱吉寛永寺霊廟
 宝永6年(1709)11月に綱吉の霊廟は竣工したが、それは歴代将軍の霊廟を通じて最も完成度の高い華美なものであった。維新後にその一部は解体され、東京大空襲で焼失した。勅額門と水盤舎は、その霊廟と共にこれらの災難を免れた貴重な遺構である。