12 代将軍家慶、そして天保の改革

<江戸学>
◆12 代将軍家慶は、11代将軍家斉の二男として江戸城で生まれる。母は側室の香琳院である。文化6年(1810)有栖川宮織仁親王の第6皇女・楽宮喬子を正室に迎える。御台所に3子女が生まれるが夭折した。文政8年(1825)側室のお美津(本寿院)に4男家定が生まれる。翌年、側室お久(清涼院)に生まれた5男の慶昌の学友として勝麟太郎8歳が2年間江戸城に詰めている。慶昌は13歳で一橋家の6代当主に就任と同時に死去する。家定は8人の側室に14男13女を儲けたが殆ど早世し、20歳を超えて生きたのは家定のみであった。天保8年(1837)家慶(45歳)は、すでに長兄が早世しているため将軍職を譲られる。
 天保12年(1841)大御所として権勢を保持していた父家斉の死後、家慶は四男の家定を将軍継嗣に定めた。同年に起きた米国商船モリソン号への砲撃事件で幕府の対外政策を批判した高野長英渡辺崋山鳥居耀蔵言論弾圧したのが蛮社の獄である。父家斉の50年に及ぶ治世で腐敗した幕政を立て直すべく老中首座に水野忠邦を重用した天保の改革で質素倹約を推し進めた。しかし、天保14年(1843)大阪で幕領地の拡大編入で反発を受け、忠邦は失脚して天保の改革は挫折した。その後、土井利位、阿部正弘に幕政をゆだねる。また、家慶は水戸藩主・徳川斉昭の7男(慶喜)を一橋家を相続させた。
 嘉永6年(1853)6月3日、米国のペリー提督が4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れる「黒船来航」で幕政は風雲急を告げる。その対策に追われる最中の6月22日家慶(61歳)は死去する。・在位16年2ヶ月(1837〜〜53) 徳川宗家墓所・芝増上寺

天保の改革
天保年間には全国的な凶作による米価・物価高騰や天保の大飢饉百姓一揆や都市への下層民流入による打ち壊しが起こっており、天保7年(1836年)には甲斐国における天保騒動や三河加茂一揆、翌天保8年には大坂での大塩平八郎の乱などの国内事情に加え、阿片戦争やモリソン号事件など対外的事件も含め、幕政を揺るがす事件が発生していた。天保8年(1837年)、将軍徳川家斉は西丸で退隠し大御所となり、家慶が将軍職となる。老中首座の水野忠邦天保9年には農村復興を目的とした人返令や奢侈禁止を諮問しているが、大奥や若年寄の林忠英、水野忠篤、美濃部茂育ら西丸派(家斉の寵臣たち)による反対を受け、水戸藩徳川斉昭による後援も得たが、幕政改革は抵抗を受けていた。天保12年(1841年)に大御所家斉が死去し、水野忠邦は林・水野忠篤・美濃部ら西丸派や大奥に対する粛清を行い人材を刷新し、重農主義を基本とした天保の改革が開始される。同年5月15日に将軍徳川家慶享保寛政の改革の趣意に基づく幕政改革の上意を伝え、水野は幕府各所に綱紀粛正と奢侈禁止を命じた。改革は江戸町奉行遠山景元矢部定謙を通じて江戸市中にも布告され、華美な祭礼や贅沢・奢侈はことごとく禁止される。なお、大奥については姉小路ら数人の大奥女中に抵抗され、改革の対象外とされた。
 遠山・矢部両名は厳格な統制に対して上申書を提出し、見直しを進言するが、水野は奢侈禁止を徹底し、同年に矢部が失脚すると後任の町奉行には忠邦腹心の目付鳥居耀蔵が着任する。鳥居は物価高騰の沈静化を図るため、問屋仲間の解散や店頭・小売価格の統制や公定賃金を定め、没落旗本や御家人向けに低利貸付や累積貸付金の棄捐(返済免除)、貨幣改鋳をおこなった。これら一連の政策は流通経済の混乱を招いて、不況が蔓延することとなった。天保の改革はこうした失敗に見舞われたものの、水野は代官出自の勘定方を登用した幕府財政基盤の確立に着手しており、天保14年には人返令が実施されたほか、新田開発・水運航路の開発を目的とした下総国印旛沼開拓や幕領改革、上知令を開始する。印旛沼開発は改革以前から調査が行われており、庄内藩や西丸派の失脚した林忠英が藩主である貝淵藩ら4藩主に対して御手伝普請が命じられ、鳥居も勘定奉行として携わり、開拓事業が開始される。また、幕府直轄領に対して同一基準で検地を実施し、上知令を実施して幕領の一円支配を目指した。上知令の実施は大名・旗本や領民双方からの強い反対があり、老中土井利位や紀州徳川家からも反対意見が噴出したため中止され、天保14年閏9月14日に水野は老中職を罷免されて失脚し、諸改革は中止された。天保の改革に先立って、薩摩藩長州藩などの西国雄藩や水戸藩などを中心に藩財政改革を中心とした藩政改革が実施された結果、諸藩は自律的藩財政を運営するに至っており、天保の改革における上知令などは幕府と諸藩経済との間に対立を生んだことも指摘される。