「耀甲斐」鳥居耀蔵

鳥居耀蔵(とりい ようぞう・1815〜1874)
 略歴:大学頭林述斎の次男。旗本鳥居家へ養子に入る。通称耀蔵。名は忠耀。官は甲斐守。甲斐守の耀蔵ということで「妖怪(耀甲斐)」と仇名され恐れられた。己の権勢欲のために、南町奉行を失脚させその後釜に納まり、ついで「蛮社の獄」を画策。蘭学者を弾圧した。水野忠邦天保の改革に参画し、辣腕を振るう。しかし、上知令問題で水野が窮地に陥ると自分の保身から水野を裏切り、水野を失脚させる。しかし、後に水野が老中に再任されるや、罷免され讃岐丸亀藩にお預けとなる。
・この人物は、自分の出世欲、権勢欲のために讒言、デッチ上げ、裏切りなど、ありとあらゆる奸智をめぐらし出世した人物である。生まれは決して悪くない。悪くないどころか名門の出である。耀蔵の生まれた林家は幕府の官学、朱子学の「家元」ともいうべき家柄。また幕府の政治の諮問や、外交文書の作成にも関わるため、幕府の政治顧問、外交顧問といった性格ももつ。耀蔵はこの林家の次男に生まれ、旗本2500石鳥居家に養子に入ることができた。この鳥居家も名門である。
 耀蔵が出世のきっかけを掴んだのは大塩平八郎の乱である。大塩平八郎は大坂町奉行の与力で、いわば幕府の役人。その役人が困窮する庶民に対し何の対策をも施さぬ幕政に抗議して門人をあつめて起した乱である。しかし、この大塩の乱はわずか1日で鎮圧され、大塩は潜伏先で捕吏に囲まれ爆死する。しかし、幕府の役人の叛乱という前代未聞の事件に幕府はその後始末に苦慮した。大塩の反乱は公憤によるものは明らかであり、乱によって焼き払われた大坂の町人も「大塩様」と呼んで評判が高かっただけになんとかして大塩の評判を引きずり落す必要があった。その大塩の罪状を「作った」のが耀蔵である。耀蔵はその判決文に、「大塩は養子格之助の妻と姦通した」と事実無根の人格攻撃を行い、大塩個人を貶める判決文をつくった。もっとも、この判決文は幕府内でも評判は悪く、「ありもしないことをデッチ上げ大塩個人を貶めることを主眼においた文である。このよう文では人々は納得しないであろう」という意見もあったが、大塩人気を封じたい幕府はこの鳥居の判決案を採択して大塩事件のケリをつけた。そしてこの判決文こそが耀蔵の出世の糸口になったのである。大塩判決で見せた、「誹謗」「中傷」「デッチ上げ」。このやりかたがこの後も耀蔵が出世をしていく手口となる。
 このころ、外国船がしきりに日本近海に出没。幕府も国防の必要性を感じるようになった。そこで、江戸湾の入口の要衝、浦賀の測量を始める。測量を命じられたのが、当時、目付になっていた耀蔵と伊豆韮山の代官である江川太郎左衛門英龍である。江川英龍韮山代官ながら蘭学者たちの集まりである「尚歯会」のメンバーでもあった。「尚歯会」は渡辺崋山高野長英蘭学者を中心としたグループである。「尚歯会」ではオランダの書物を通じて、ヨーロッパの科学技術、政治などを知り、世界情勢を研究するグループである。このグループには崋山や長英の蘭学者や、川路聖謨、羽倉簡堂、江川英龍などの幕臣国学者の一部などが加わり、身分や立場を超えたサロンのような性格を持つ。
 江川はこの浦賀測量にあたり、「尚歯会」の最新の測量技術や人材を導入した。しかし、耀蔵はそれが面白くない。耀蔵は朱子学の本家、林家の出身なので洋学アレルギーがあったのが根幹にあったのであろうが、それよりも相役の江川が自分より成績をあげると出世の妨げになると考えたに違いない。耀蔵は江川にイチャモンをつけて「尚歯会」から借りた測量技師を調査隊からはずさせた。耀蔵にとって、国防問題よりもライバルを蹴落とすほうが大事であったようだ。しかし、結果からすれば耀蔵の測量隊は、江川の測量隊に負けた。余りにも調査結果に差があり耀蔵側の報告が杜撰なものであった。これにより江川は大いに面目を施したが耀蔵は大恥をかいた形となった。ここで耀蔵は報復に出る。「尚歯会」の潰滅を図るのである。逆恨みもいいところだが、面目を失った耀蔵にとって「尚歯会」は何がなんでも潰さなければならない。ちなみに耀蔵をはじめ洋学嫌いの国学者たちは「尚歯会」を「蛮社」と呼んだ。「野蛮な洋学を信奉する結社」という意味である。 耀蔵は「尚歯会」に探りを入れ、「尚歯会」に海外密航の企てがあると耀蔵はでっちあげ、中心人物渡辺崋山を捕縛させた。折りしも、崋山が書いた「慎機論」が発見されそれが幕政批判にあたるとされ厳しく糾弾された。
 結果的には、崋山は国許三河田原に永蟄居。(のち蟄居先で自殺)、蘭学者小関三英は自害。高野長英は自首したが終身刑(のち破獄して全国を潜伏するも捕吏に囲まれ自殺)となった。これにより「尚歯会」は潰滅した。これを「蛮社の獄」という。
 結果的にいえば「蛮社の獄」の代償は余りにも大きかった。世界情勢を察知し、各方面にも影響力が少なくなかった「尚歯会」が潰滅したことによって日本はその後、海外の情勢分析をする機関がなくなってしまった。蛮社の獄の直後、清国で起きたアヘン戦争においても幕府は対応できなかった。もし「尚歯会」が幕末まで残っていたらペリー来航の際、幕府の対応はもっとマシな物であったに違いない。
 耀蔵は幕府の要職、南町奉行になるため、老中水野忠邦に取り入り、現奉行、矢部定謙を無実の罪に陥れこれを追い落とした。そして耀蔵は念願の南町奉行になったのである。(ちなみに矢部は桑名藩にお預けののち死亡する。また北町奉行は遠山の金さんこと遠山金四郎。耀蔵と遠山はライバルとなる)このころ、老中水野忠邦は「天保の改革」を行う。耀蔵は水野の腹心として改革を推進する。天保の改革は江戸市民の生活を圧迫した。市民の贅沢を禁止したため、貨幣の流通が停滞し不景気を引き起こしたのである。その江戸市民の間にスパイを放ち、取締りを強化したのが耀蔵である。密偵たちは検挙率をあげるため些細なことでも取り締まったため、江戸の町は一種の恐怖政治に陥った。人々は、耀蔵のことを「妖怪」と呼んで恐れた。彼の官名「甲斐守」の甲斐と「耀蔵」の耀をとった「耀甲斐」のもじりである。
 耀蔵はさらにその魔手をのばす。当時、洋式砲術の大家、高島秋帆(たかしま しゅうはん)が幕府に認められ取り立てられることになった。このままでは高島の洋式砲術が正式に採用される動きになっていた。洋式嫌いの耀蔵にはそれが面白くない。それに高島秋帆浦賀測量以来恨み重なる江川英龍の砲術の師にあたる。耀蔵は高島に密貿易や謀反の嫌疑をかけ、捕縛してしまう。
 水野忠邦は腹心の耀蔵を勘定奉行にする。南町奉行と兼任だから今でいえば、財務大臣東京都知事、警視庁長官、最高裁裁判官を一人でやっているようなもんだ。耀蔵の権勢の凄さが理解できよきよう。
 しかし、この当時、水野の天保の改革も行き詰まりを見せていた。天保の改革の目玉、「上知令」が諸大名の猛反対でうまくいかなくなったためである。「上知令」は江戸と大坂の周辺を諸大名から取り上げ、幕府の直轄領にするという政策である。しかし、大坂周辺に領地をもつ紀州徳川家をはじめ多くの譜代大名が反対した。ここに反水野派が結集された。日に日に、水野が追い込まれてゆく中で腹心であるはずの耀蔵も水野を見限る。見限るばかりか反水野派に寝返ってしまった。これにより水野は老中を失脚した。家慶の命令で10ヶ月後に水野が復職したのである。復職した水野によって耀蔵は閑職に追い込まれ、ついに罪状を調べられて、讃岐丸亀の京極家に永預けとなった。耀蔵は丸亀の京極家に預けられること23年の長きに渡った。
 この間、将軍の代替わりなどによる恩赦の機会が何度かあったが、耀蔵を赦す動きは遂に無かった。