第6代将軍家宣。そして第7代将軍家継

◆第6代将軍家宣
 6代将軍家宣は、寛文2年(1662)家光公の三男綱重(甲府宰相)と母お保良の方(長昌院)の長男に江戸根津下屋敷(現根津神社)で生まれた。父綱重が正室近衛熙子を娶る直前に女中に産ませたため、家臣の養子としていた。後継ぎの男子に恵まれなかった綱重は、9歳の時世嗣として呼び戻して綱豊と名乗った。延宝6年(1678)父・綱重が死去し、17歳で甲府藩主の家督を継いだ。宝永元年(1704)実子の誕生に妄執していた5代将軍綱吉にも後継ぎの男子がおらず、家光公の孫である綱豊が将軍世嗣に指名され、家宣と改名して江戸城西ノ丸に入る。
 宝永6年(1709)綱吉の死去で家宣は歴代最高齢の48歳で第6代将軍に就任する。直ちに生類憐みの令を順次廃止させた。同年、側室お喜世の方(月光院)に鍋松(7代家継)が生まれた。これまで下積み時代が長く人間洞察力に優れた家宣は、老中格側用人間部詮房(まなべあきふさ)、学者として新居白石・室鳩巣らを登用、幕府の財政破綻が始まり、萩原重秀による正徳金銀の発行などの財政改革を試みた。しかし、家宣は在職3年後の正徳2年(1712)に死去。4代家綱・5代綱吉と同様に6代家宣も後継者に恵まれず3歳の家継が将軍職を継いだ。引き続き、政治は間部詮房、新居白石らに依存する結果となった。

◆第7代将軍家継
 7代将軍家継は、宝永6年(1709)6代将軍家宣の4男に生まれ、母は側室・お喜世の方(月光院)である。家宣は子宝に恵まれず次々と早世し鍋松(家継)だけが生き残り、歴代最年少の将軍となった。家宣は尾張徳川吉通に継がせるか、また家継の後見人として吉通を西ノ丸に入れて政治を任せるか、病床に新居白石らを呼び相談した。その結果、派閥争いが過去に繰り返さえており、幕臣が御三家、御一門、譜代大名と共に3歳の家継を守り盛り立て、万一のことがあれば、家康公が立てられた御三家に継承することで決着した。正徳3年(1713)4月、鍋松は家継と改名し、将軍宣下を受けて第7代将軍に就任した。家継は詮房や白石と共に家宣の遺志を継ぎ、正徳の改革を続行した。

・江島生島事件
 正徳4年(1714)家継の母・月光院の右腕である大奥御年寄の江島が家宣の増上寺墓参り代参の帰りに木挽町山村座で歌舞伎を鑑賞した。その後、贔屓にしている歌舞伎役者の生島新五郎を芝居茶屋の宴会に招いて、大奥七ツ口の門限に遅れたことで江島生島事件が発覚した。絵島は山村座の観劇で二枚目役者の生島に一目惚れ、大胆にも長持ちに生島を潜ませて大奥に連れ込む仲であった(この点については、真実かどうか不明である。かなり、フィクションの感が否めない)。当時の大奥には家継の生母「月光院」を中心とする勢力と全将軍家宣の正室「天英院」を中心とする二大勢力争いの謀略とする説もある。評定所の決定した大奥の風紀粛正で江島は高遠藩預け、江島の兄は斬首、生島は石抱の刑で自白し三宅島へ遠島、山村座主は大島へ遠島になるなど奥女中をはじめ1400名の連座者が罰せられた大スキャンダル事件となった。