第9代将軍家重

◆9代将軍家重は、正徳元年(1712)12月、徳川御三家紀伊藩主・徳川吉宗と母(側室)深徳院(お須磨の方)の長男として江戸赤坂の紀州藩邸で生まれる。家重は生まれつきの虚弱体質で側近さえ聞き取れぬほど障害により言語不明瞭であった。若いころから一日の大半を大奥で過ごし酒色に耽り、政治向きには興味を示さない生活に明け暮れた。享保16年(1731)比宮増子(證明院)を正室としたが2年後に死去した。家重はその後正室を迎えることはなかったが、側室お幸の方(至心院)に長男・家治(10代将軍)が生まれる。側室お遊喜(安祥院)に次男・重好(清水家初代)が生まれる。
 延享2年(1745)吉宗は将軍職を家重(35歳)に譲った。吉宗には有能な子息がいたが、家康公の定めた長幼の序を守って苦悩の末に家重を後継とした。それゆえであろうか、次男の宗武には田安家、4男の宗多尹には一橋家、家重の次男重好には清水家を興すよう遺言を残し、御三家に次ぐ御三卿を興した。幕政は大御所として父吉宗が関わるが、死後は老中松平武元や側用人大岡忠光らが担った。忠光が家重の側近となったのは不明瞭な言葉を聞き取ることができる唯一の人物であった為である。家重は有能な家臣に恵まれ、吉宗の政治路線は着実に受け継がれた。幕政は滞りなく運営され、側近となった田沼意次も頭角を現している。
 しかし、宝暦3年(1753)12月、家重は薩摩藩主・島津重年に洪水が多発する木曽三川木曽川長良川揖斐川)の分水治水工事を命じた。幕命とはいえ莫大な工費と難工事の連続で薩摩藩士の自害や病死など多くの犠牲者が出た「宝暦治水事件」が起きている。また、竹内式部神道家、尊王・斥覇を提唱)による宝暦事件が起こり、朝廷内の幕府批判が燻りはじめ、幕末の勤王運動の端緒となる。宝暦10年(1760)家重は長男家治に将軍職を譲って隠居、翌年在位14年6ヶ月(1745〜60)51歳で死去した。