うどん県讃岐うどん駅へ

◆今朝は、羽田空港から高松へ。午前中と午後にわたり、「マネジメントと進行管理」というテーマでいかに営業成績をあげるのか、所見を他社であるK社の営業所所長を中心に講演。昼休憩中うどんを堪能。うどんだけでなく、汁やかき揚げのおいしさに舌鼓を打った。黒おでんも良かった。昼の割には食べ過ぎ、午後からの講義はしんどかった。夕方に特急でうどん県讃岐うどん駅から坊ちゃん駅へ。そして夕食前に道後温泉本館で入浴。

・うどんの由来
 讃岐うどんの歴史は、讃岐が生んだ弘法大師空海が、遠く中国から持ち帰ったのが始まりと伝えられている。空海延暦804年31歳の時入唐。1年あまり長安に滞在して806年帰国した。そのとき、持ち帰ったのが「うどん製法」「小麦」「唐菓子」のいずれかであったと言われている。以来、讃岐ではうどん作りが盛んになり約300年前からの江戸の元禄時代の頃、狩野休円清信が「金毘羅祭礼図」(屏風一双)に3軒のうどん屋が描かれており、早くも金毘羅さんで「うどん屋」が現れたことを証明された。 また、1712年ごろ「和漢三才図絵」という当時の百科事典があり、ここに「諸国皆有之 而讃州丸亀之産為之上 為饅頭色白」(諸国に皆これがあるが、讃岐丸亀の産を上とする 饅頭として色白し)とあり、上質の麦の産地であったことが分かります。「さぬきうどん」の発祥地は諸説あり、この絵から琴平町からと言う説もあり、また綾川中流の滝宮説など諸説があるが確たる証拠はありません。讃岐の地で盛んに「うどん」が作られたのは、上記のように昔から上質の小麦が生産されたこと、品質のよい「いりこ」が多く取れたこと、古代から塩の産地であり製塩が盛んであったこと、また小豆島は江戸時代から有数の醤油生産地であったことなど「うどん」作りに適した地であり、農家で代々受け継がれ磨かれてきたうどん打ちの技術があったためであろう。

道後温泉本館
 道後温泉本館(どうごおんせんほんかん)は、愛媛県松山市道後温泉の中心にある温泉共同浴場。別名・愛称は坊っちゃん湯。戦前に建築された歴史ある建物(近代和風建築)で、街のシンボル的存在であり、1994年に国の重要文化財文化施設)として指定された。共同浴場番付において、東の湯田中温泉大湯と並び西の横綱に番付けされているほか、2009年3月、ミシュランガイド(観光地)日本編において2つ星に選定された。
 歴史をみると、1890年、道後湯之町の初代町長として伊佐庭如矢(いさにわゆきや)が就任した。この頃、町の最大の懸案は、老朽化していた道後温泉の改築であった。伊佐庭は町長就任に際して、自らは無給とし、その給料分を温泉の改築費用に充てることとした。総工費は13万5千円。当時の小学校教員の初任給が8円といわれた時代で、あまりに膨大な予算に町民は驚き、町の財政が傾きかねない無謀な投資だと非難が渦巻いた。反対運動は激しさを増し、伊佐庭が命の危険を感じるほどであったが、伊佐庭は決定を貫き通した。棟梁は城大工の坂本又八郎を起用し、姿を現した木造三層楼は、当時でも大変珍しがられた。伊佐庭はさらに道後への鉄道の引き込みも企図し、道後鉄道株式会社を設立。一番町〜道後、道後〜三津口間に軽便鉄道を走らせ、客を温泉へ運んだ。関西からの航路が開かれるなど、道後温泉が発展していった様子がわかる。