幡随院長兵衛。

◆幡随院長兵衛といえば、江戸初期に旗本奴・水野十郎左衛門と男伊達を競った江戸庶民のヒーロー。まさに絵に描いたような江戸っ子…かと思いきや、その出身地は佐賀県唐津市とも。
・幡随院 長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ、元和8年(1622年) - 明暦3年7月18日(1657年8月27日))は、江戸時代前期の町人。町奴の頭領で、日本の侠客の元祖ともいわれる父の死後、幡随院(京都の知恩院の末寺)の住職・向導を頼って江戸に来て、浅草花川戸で口入れ屋を営んでいたとされる。
 旗本奴と男伊達を競いあう町奴の頭領として名を売るが、明暦3年7月18日(1657年8月27日)、若い者の揉め事の手打ちを口実に、旗本奴の頭領・水野十郎左衛門(水野成之)に呼び出され殺害された。水野は、長兵衛殺害の件に関してはお咎めなしであったが、約7年後の寛文4年(1664年)3月26日、行跡怠慢の門で実母・正徳院の実家である徳島藩藩主(蜂須賀家当主)蜂須賀光隆の下に、弟・忠丘等共々お預けとなった。翌27日に評定所へ出頭したところ、出頭時の容姿が月代を剃らず着流しの伊達姿であったため、あまりにも不敬不遜であるとしてその日のうちに切腹、僅か2歳の嫡子・百助も誅されて、水野家は一時家名断絶となった後、弟の忠丘が元禄元年(1688年)に赦され、元禄14年(1701年)に旗本となり、水野家は再興された。