土浦城と土屋正直

土浦城江戸前〜中期に老中を務めた土浦藩主土屋政直の居城。政直は産業振興、とくに醤油醸造業を保護育成。なかでも日本橋に進出し「亀甲大」の商標で成功した大国屋国分勘兵衛は、明治期には缶詰業で成功。これが現在の総合食品企業K&K国分のようだ。
土浦城
 関東に入った徳川家康は、土浦を次男で結城氏に養子入りした結城秀康に与え、土浦城を領内の支城とする。秀康が越前国北ノ庄に移ると、藤井松平家の松平信一が3万5千石で入封。その後松平信吉の代に5千石の加増を受ける。元和3年(1617年)、信吉が上野国高崎に転封となって西尾忠永が2万石で入封。以後、城主は西尾氏・朽木氏と代わり、寛文9年(1669年)、土屋数直が4万5千石で入封。土屋氏は、天和2年(1682年)、子の政直のとき天和2年(1682年)駿河国田中に移ったが、代わって城主となった大河内松平家松平信興が5年後の貞享4年(1687年)に大坂城代に転ずると、土屋政直が再び6万5千石で入封。その後三度の加増を受けて9万5千石となり、常陸国では水戸藩に次いで大きな領地を支配し、以後土屋氏が11代、約200年間世襲して明治維新に至った。
・土屋 政直(つちや まさなお)は、江戸時代中期の大名、老中。常陸土浦藩主、駿河田中藩主。土浦藩主土屋数直の長男として生まれ、父の死後に家督を相続する。その後、駿河田中藩を経て土浦藩に復帰する。漸次加増をうけ、最終的に9万5000石となる。奏者番大坂城代京都所司代を経て老中に就任、元禄11年(1698年)に老中首座となり4人の将軍に仕えたが、側用人政治を展開していた新井白石間部詮房には内心反対し、7代将軍徳川家継の後継者争いの際、側用人の廃止を条件として徳川吉宗の擁立に尽力する。吉宗は将軍になると老中達に口頭試問をしたが、なんとか恥を掻かずに済んだのは3問中2問を答えることができた政直のみだったそうだ。享保4年(1719年)、老中を辞任・隠居して四男の陳直に家督を譲り、3年後に82歳の高齢で亡くなった。茶道を嗜み、小堀遠州流の門人の一人でもある。