模擬チェックテスト②

町火消について
(1) 明暦3  明暦の大火 
(2) 万治1 (明暦の大火の翌年)  自衛消防組織をつくる 
(3) 享保3  大岡忠相 町火消の設置を命ずる 
(4) 享保5  隅田川をさかいに 47組 16組に 
(5) 享保7  武家屋敷の火事も消火するよう命ぜられる 
(6) 享保15 47組を 大組に編成(10組) 
(7) 享保16 浅草米蔵の防火を命ぜられる 
(8) 元文3  大組10組 → 8組 
(9) 延享2  47 → 48組となる 
(10) 延享2  本所深川 大組3組に 
(11) 延享4  江戸城(二の丸)にて跡火消 
(12) 天保9  西の丸出火 消火活動 
(13) 天保15  大奥出火 消火活動 
1. 町火消の起こりといえる自衛消防施設をつくったのは何時。・・・万治1 (明暦の大火の翌年)
2. 町方で出火したとき いくつの町が消火にあたりますか。その人数は1町につき何人。・・・6町(風上2町、風脇左2町、風脇右2町) 30人
3. 享保15 大組に編成したことにより多くの人数を集めることが可能となりました。1町あたりの人数をどの様にしましたか。・・・30人 → 15人
4. 延享2 1組増えました それは何組。本組 (三番組) 

●「おもな浄瑠璃・歌舞伎作者」
1. 河竹黙阿弥は「東海道四谷怪談」を書いた鶴屋南北に入門した。○ か × か。・・・×( 河竹黙阿弥は5代目鶴屋南北に入門した。「東海道四谷怪談」を書いた鶴屋南北は四代目)
2. 竹本義太夫の跡をついで竹本座の座元になったのは誰。・・・竹田出雲 (初代)
3. 多数の作品を残した近松門左衛門ですが世話浄瑠璃と時代浄瑠璃ではどちらの作品のほうが多いですか。時代浄瑠璃(約90作品、世話浄瑠璃は(24作品)
4. 菅原伝授手習鑑は竹田出雲(二代目)、(並木千柳)、(三好松洛)の合作です。
5. 本朝廿四孝 傾城阿波の鳴門 新版歌祭文などを書いたのは誰。・・・近松半二

●打ちこわし
1.唐来参和の「天下一面鏡梅鉢」で、ある打ちこわしの様子が描かれているがこの打ちこわしは いつの時代。・・・天明
2. この時期 政権の交代がありました。田沼意次から 松平定信へ。
3. 「後見草」には『もし 此度の騒動なくば 御政事改まるまじき』と 記されています。これを記したのは誰。・・・杉田玄白

●過去問関連①
1. 天皇が麻疹に罹患。吉宗は自家製の薬を献上した。その薬の原料は。(第4回)・・・牛の糞
2. (前問に関連して)この時の天皇は誰・・・中御門天皇
3. 元禄11年9月の火事は勅額火事と呼ばれます。この日 寛永寺根本中堂に掲げられる勅額が届いたことによります。では これを書かれた天皇は。・・・・東山天皇

●過去問関連②
1. 愛知県岡崎市にある(A)は 松平家菩提寺である。この寺には(B)をのぞく歴代の将軍の位牌がある。その大きさは将軍の(C)になっている。(第1回)・・・A 大樹寺 B 慶喜 C 身長
<参考>
       位牌(注) 死因     享年
1  家康   159.0   胃がん    75 
2  秀忠   160.0   胃がん    54 
3  家光   157.0   脳卒中(高血圧)   48 
4  家綱   158.0   ?      40 
5  綱吉   124.0   はしかによる窒息   64 
6  家宣   156.0   インフルエンザ   51 
7  家継   135.0   急性肺炎    8 
8  吉宗   155.5   再発性脳卒中 68 
9  家重   151.4   脳性麻痺による尿路障害   51 
10  家治   153.5   脚気衝心   50 
11  家斉   156.6   急性腹症   69 
12  家慶   153.5   暑気当たり  61 
13  家定   149.9   脚気衝心   35 
14  家茂   151.6   脚気衝心   21 
15  慶喜        急性肺炎   77 
  (注) 大樹寺の位牌の大きさ(cm)

2. 寛永寺は 東叡山寛永寺。では 増上寺は (三縁山)増上寺
3. 伝通院の正式名称は。・・・無量山寿経寺(東京都文京区小石川三丁目)
4. 伝通院には 将軍(家光)の正室(鷹司孝子(本理院))があります。

<参考>
◆伝通院(傳通院、でんづういん)は、東京都文京区小石川三丁目の高台にある仏教浄土宗の寺。正式名称は、無量山 傳通院 寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)。または小石川 伝通院とも。徳川将軍家菩提寺。江戸三十三箇所観音札所の第十二番札所。「でんずういん」とも書かれる。慶長7年(1602年)8月に徳川家康の生母・於大の方が京都伏見城で死去し、家康は母の遺骸を遺言通りに江戸へ運び、大塚町の智香寺(智光寺)で火葬した。位牌は久松俊勝菩提寺安楽寺(愛知県蒲郡市)に置かれ、光岳寺(千葉県関宿町野田市)など各地に菩提寺を建立した。慶長8年(1603年)に家康は母の遺骨を現在の墓地に埋葬し、寿経寺をここに移転して堂宇(堂の建物)を建て、安楽寺住職から受けた彼女の法名「伝通院殿」にちなんで院号を伝通院とした。
 家康は、当初は菩提寺である芝の増上寺に母を埋葬するつもりであったが、「増上寺を開山した聖聡上人の師である了譽上人が庵を開いた故地に新たに寺を建立されるように」との増上寺十二世観智国師(慈昌)の言上を受けて、伝通院の建立を決めたという。慶長13年(1608年)9月15日に堂宇が竣工。観智国師門下の学僧廓山(後に増上寺十三世)が、家康から住職に指名された。
 寺は江戸幕府から寺領約600石を与えられて、多くの堂塔や学寮を有して威容を誇り、最高位紫衣を認められ、増上寺に次ぐ徳川将軍家の菩提所次席となった。増上寺・上野の寛永寺と並んで江戸の三霊山と称された。境内には徳川氏ゆかりの女性や子供(男児)が多く埋葬されており、将軍家の帰依が厚かったとされている。元和9年に830石に加増された。また慶長18年(1613年)には増上寺から学僧300人が移されて、関東十八檀林の上席に指定され、檀林(仏教学問所)として多いときには1000人もの学僧が修行していたといわれている。正保4年(1647年)に三代将軍家光の次男亀松が葬られてからは、さらに幕府の加護を受けて伽藍などが増築されていった。享保6年(1721年)と享保10年(1725年)の2度も大火に遭っている。伝通院の威容は、『江戸名所図会』、『無量山境内大絵図』、『東都小石川絵図』の安政4年(1857年)改訂版でも知ることができる。高台の風光明媚な地であったため、富士山・江戸湾・江戸川なども眺望できたという。
 幕末の文久3年(1863年)2月4日、新撰組の前身となる浪士組が山内の塔頭処静院(しょじょういん)で結成され、山岡鉄舟清河八郎を中心に近藤勇土方歳三沖田総司芹沢鴨ら250人が集まった。当時の処静院住職・琳瑞は尊皇憂国の僧だったため、浪士隊結成の場に堂宇を貸したと思われるが、後に佐幕派の武士により暗殺され、処静院は廃された。 また伝通院は、彰義隊結成のきっかけの場ともなったという。