揚場町と升本喜兵衛

揚場町の由来
万治2年(1659)江戸湊から隅田川を経て外濠(神田川)に入り飯田濠まで船で物資が運ばれるようになると、船着場として水際に造られた荷揚場から「牛込揚場町」と名付けられた。山ノ手の物資供給基地となった揚場に集積した荷物を軽篭という縄で編んだ篭に入れ、背負う人足を軽子と呼び、彼らが上って行った坂を「軽子坂」と呼ぶようになった。揚場河岸には茗荷屋、丸屋などの船宿が見える。
●升本喜兵衛
初代升本喜兵衛(1822〜1907)は、牛込揚場町三河屋で修業する。弘化4年(1847)四谷大番町で「升本」を開業する。明治維新を迎えると本拠地を牛込揚場町に移し、明治3年(1870)には町年寄として、当時の牛込区の役職をはじめ、明治12年(1879)牛込区会議員、15年東京市議会議員など歴任する。升本は酒卸業と共に駿府など国許に帰った旗本武家屋敷地の多くを買占め、東京でも有数の不動産を所有する資産家となった。
●升本喜兵衛と白鷹酒造
文久2年(1862)初代の辰馬悦蔵は辰馬本家(白鹿酒造)より分家し、超一流の酒だけを造ろうと白鷹酒造を興す。明治6年(1893)兵庫県三木市吉川町市ノ瀬の棚田で山田篤次郎が酒造に最適な改良米を苦心して作り出していた。辰馬悦蔵はこの酒米を採用して奨励金などで品質向上を支援すると、これが契約栽培の村米制度に発展し、大正11年(1922)日本一の酒米山田錦」を生み出したのである。
 白鷹は東京で売り出したが、超一流主義の酒造りは結果として高価な酒となり、評価を得るに至らなかった。しかし、この白鷹を高く評価したのが、升本喜兵衛である。升本総本店で白鷹を盛り立て神楽坂の花柳界などで安定した顧客を得た。そして東京でその名を広めることに成功し、多大な売り上げを記録した。白鷹は着実に超一流の酒造りに邁進した。明治19年(1886)白鷹蔵元の悦蔵が西宮から上京して東京升本総本店に訪れ、「私の酒の真贋を最も早く認めてくれたのは貴方です」と言って喜兵衛の手を堅く握りしめた。