桂昌院(再掲)

桂昌院は徳川三代将軍家光の側室で、後に五代将軍綱吉の生母となった。八百屋の娘からここまで登り詰めた、いわば日本版シンデレラであるが、その一方で悪法“生類憐みの令”発令のきっかけをつくった悪女でもある。
 幕府祚胤伝によると、父は二条関白光平公家司本庄太郎兵衛宗利(初めの名宗正)とされているが、しかし、お玉は俗に八百屋の娘と言われるように、実際は身分の低い者の娘だったと言われている。本庄宗利は前妻がなくなったため後妻をもらいました。この後妻が八百屋仁左衛門の妻でした。仁左衛門の妻が本庄家に奉公に出たところ宗利の手がつき仁左衛門の妻となりました。この仁左衛門の妻の連れ子の一人がお玉でした。成長したお玉は13歳の時にお万の方の侍女となるため江戸に下る。京都の公卿のお嬢さんが伊勢・慶光院という門跡寺の尼になり、寛永16年(1639)3月、そのお礼のために家光のところに出向いた。 江戸城で家光に拝謁したところ、家光はそのお嬢さんを一目見て「尼にしておくのはもったいない」と不心得を起こし、そのまま江戸に留め還俗させて、側室・お万の方が誕生することになる。そして、そのお万の方の腰元としてお玉が行くことになった。初めはお万の方の部屋子となりましたが、その美貌が春日局の目にとまり家光のお側近く仕えました。18歳のお玉は、家光の寵愛を受けて側室に加えられ、お玉の方と呼ばれるようになりました。。。腰元お玉の、いきいきした下町娘ふうな美しさが家光の目にとまったというわけだ。身分制度のやかましかった徳川封建体制下ではラッキーなことだが、そのうえ彼女は妊娠し、しかも男の子が生まれて、これが五代将軍綱吉になった。
 というのは、家光には側室は彼女の他に4人いて、別の側室2人に長男家綱、二男網重と男の子が2人いたので、本来なら彼女の子は将軍にはなれないはずであった。が、四代を継いだ家網は子供なしで早死にし、続いてその弟、網重も亡くなり、兄2人が死んで、上州・館林の藩主だった綱吉に将軍の座が回ってきた。その頃はすでに家光に死別して、お玉は未亡人になっており、当時の慣例として剃髪し、桂昌院と呼ばれていた。
 綱吉は学問好きの将軍として知られているが、家光が戦乱の余燼がまだおさまらない時代に成長し、学問をする時間がなかったので、子供たちには学問させたいと考えており、お玉はその言葉を守り、綱吉を指導したため、綱吉は徳川歴代将軍の中でも特筆されるほどの好学将軍になった。四書五経、大学、中庸など彼の知識レベルは、学者なみであったそうだ。
 美貌とともに、伏魔殿のような大奥でうまく泳いでいく処世術を身につけていた桂昌院は、82歳まで生き幸福を享受し続けたが、その生涯の最大の汚点は悪法“生類憐みの令”発令のきっかけをつくったことだ。信仰心が篤かった桂昌院はそれが災いし、結果的に大奥に悪僧、隆光を引き入れ、その進言で“生類憐みの令”という未曾有の悪法を綱吉に進言。その結果、犬一匹殺しても死罪、魚、えび、しじみに至るまで食べるのを禁じるところまでエスカレートし、庶民の苦痛、不便、迷惑は大変なものだった。この悪法は1685年から綱吉が死ぬ1709年まで続く。この24年間は庶民にとって耐え難い時期だったといえる。綱吉は儒教の忠孝の教えを守って、母・桂昌院のお膳の上げ下げまでしたという。それだけに、綱吉が“犬公方”と呼ばれ、後世の批判を浴びているのは、母・桂昌院のせいといえる。
(参考資料)山本博文徳川将軍家の結婚」、永井路子対談集「五代将軍綱吉の母・桂昌院」(永井路子vs杉本苑子