江戸検への道。試験日まで31日まで。(通算1728日・1728日間継続中)

◆<今日の読書記録>
・幕末維新② 読書中
・江戸博覧強記 ⑩ 読書中
・江戸の災害と復興 ⑤ 読書中
<今日のチェック>
 ・幕末ノート

◆十干
 甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸
◆十二支
 子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥
また、十干の読み方は、「こう、おつ、へい、てい、ぼ、き、こう、しん、じん、き」そして、「きのえ、きのと、ひのえ、ひのと、つちのえ、つちのと、かのえ、かのと、みずのえ、みずのと」である。
「きのえ、きのと、ひのえ、ひのと、つちのえ、つちのと、かのえ、かのと、みずのえ、みずのと」である。

◆江戸歴史講座第40回 EDO ART EXPO関連講座 江戸の装い−女の美しさ、男の粋 10月6日 日比谷文化図書館

品川宿
 「土蔵相模」は品川でも有数の規模を誇った旅籠で、屋号は「相模屋」だが、正面が土蔵のようななまこ壁で飾られていたことから通称「土蔵相模」と呼ばれていた。土蔵相模が、幕末史上で有名な二つの大事件つまり桜田門外の変の際に水戸浪士たちが惜別の酒宴を開いたことと御殿山のイギリス公使館焼き討ち事件の際に高杉晋作たちの集合場所となっていた。品川神社は、北品川宿の鎮守で、源頼朝安房国洲崎神社から洲崎明神を勧請したのに始まり、その後、お稲荷様と天王様もお祀りした。徳川家康関ヶ原の合戦へ出陣の祭に戦勝祈願し、戦勝後、仮面(天下一嘗の面)・神輿(葵神輿、品川区教育委員会の資料では家光が奉納したとなっている)が奉納されたと言われている。6月の品川神社例大祭は「北の天王祭」と呼ばれ53段の階段を神輿が下る。ただし、以前は明治時代に奉納された千貫神輿ともよばれる大神輿が石段を下ったが、最近は中神輿が階段を下り渡御していたそうです。荏原神社は南品川宿の鎮守です。現在は目黒川の北側にあるが、これは昭和3年に目黒川の川筋が変更された。
 『江戸名所図会』では、は貴船明神社(きふねみょうじんしゃ)となっていて、明治8年に、荏原神社と改称されたもの。品川神社例大祭が北の天王祭と呼ばれたのに対して、荏原神社の6月の例大祭は、南の天王祭と呼ばれ、勇壮な神輿の海中渡御で有名でした。現在の社殿は弘化元年(1844年)のもので、170年を超えたもの。
 品川寺「ほんせんじ」は、真言宗醍醐派の別格本山で、平安時代初期の創立です。太田道灌が伽藍を建立し「大円寺」と称したが、江戸時代初期の承応元年に再興された際に「品川寺」と改めたといいます。c0187004_20153795.jpgご本尊は水月観音像といい、弘法大師空海)が東国巡行中にこの地の領主品河氏に与え、同氏の滅亡後は草堂に安置されていたもので、絶対秘仏で、現住職も見たことがないそうです。境内入口にある大きなお地蔵様は、宝永5年(1708)に江戸深川の地蔵坊正元が、浄財を集めて、江戸の入口6か所に造立した江戸六地蔵のうちの一つです。