近松門左衛門

<江戸学トピック>
享保9年(1724)11月22日、近松門左衛門が亡くなりました。72歳。越前(福井県)出身。宇治加賀掾(かがのじょう)のもとで修業。竹本義太夫と組み『出世景清』で名声を得ますが、その後古浄瑠璃と決別。『曽根崎心中』で世話浄瑠璃が大当たりし、大坂竹本座の座付作者となりました。「時代物」でも『国性爺合戦』ほか続々と傑作を発表。代表作はほかに『心中天網島』『女殺油地獄』など。

近松門左衛門について
 近松門左衛門は江戸時代前期、元禄期に人形浄瑠璃(現在の文楽)と歌舞伎の世界で活躍した、日本が誇る劇作家である。今日でも彼の多くの作品が文楽、歌舞伎、オペラ、演劇、映画などで上演・上映され、人々に親しまれている。生没年は1653(承応2)〜1724年(享保8年)。
 近松門左衛門は、松平昌親に仕えた300石取りの越前吉江藩士、杉森信義の次男として生まれた。幼名は次郎吉、本名は杉森信盛。通称平馬。別号は平安堂、巣林子(そうりんし)。ただ、出生地には長門国萩、肥前唐津などの諸説がある。2歳のとき、父とともに現在の福井県鯖江市に移住。その後、父が浪人し京都へ移り住んだ。近松が14、15歳のころのことだ。一時近江の近松寺に遊び、近松の姓はこれに因んだものといわれている。さらに、京都で仕えた公家が亡くなり、近松武家からの転身を迫られることになった。
 近松は竹本座に属する浄瑠璃作者で、中途で歌舞伎狂言作者に転向したが、再度浄瑠璃に戻った。1683年(天和3年)、曽我兄弟の仇討ちの後日談を描いた『世継曽我(よつぎそが)』が宇治座で上演され、翌年、竹本義太夫が竹本座を作り、これを演じると大好評を受け、近松浄瑠璃作者としての地位が確立された。1685年の『出世景清』は近世浄瑠璃の始まりとされる。近松はその後も竹本義太夫と組み名作を次々に発表し、1686年(貞享3年)竹本座上演の『佐々木大鑑』で初めて作者名として「近松門左衛門」と記載した。この当時、作品に作者の名を出さない慣習から、これ以前は近松も名は出されていなかったのだ。近松は100作以上の浄瑠璃を書いたが、そのうち約2割が世話物で、多くは時代物だった。世話物とは町人社会の義理や人情をテーマにした作品だが、後世の評価とは異なり、当時人気があったのは時代物。とりわけ『国性爺合戦』(1715年)は人気が高く、今日近松の代表作として知名度の高い『曽根崎心中』(1703年)などは昭和になるまで再演されなかったほど。代表作『冥途の飛脚』(1711年)、『平家女護島』(1719年)、『心中天網島』(1720年)、『女殺油地獄』(1721年)など、世話物中心に近松浄瑠璃を捉えるのは、近代以後の風潮にすぎない。1724年(享保8年)、幕府は心中物の上演の一切を禁止した。心中物は大変庶民の共感を呼び人気を博したが、こうした作品のマネをして心中をする者が続出するようになったためだ。
 (参考資料)長谷川幸延・竹本津大夫「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」

<明日の歴史探訪>
◆11月23日20時〜同59分、BS11で「尾上松也古地図で謎解き!にっぽん探究」・・・ 生麦事件〜幕府崩壊に導いた『英国書簡』」放送。カギは福沢諭吉が翻訳したという書簡?