葛飾北斎

<今日の江戸学トピック>
葛飾北斎
 葛飾北斎は江戸時代に活躍した浮世絵師で、とりわけ後期、文化・文政期を代表する一人。森羅万象、何でも描き生涯に3万点を超える作品を発表。版画のほか、肉筆画にも傑出していた。さらに読本、挿絵芸術に新機軸を見い出し、「北斎漫画」をはじめとする絵本を多数発表した。葛飾派の祖となり、後にはゴッホなど西欧の印象派画壇の芸術家をはじめ、工芸家や音楽家にも影響を与えた、世界的にも著名な画家だ。代表作に「富嶽三十六景」「北斎漫画」などがある。
 北斎武蔵国葛飾郡本所割下水(現在の東京都墨田区の一角)で、貧しい百姓の子として生まれた。幼名は時太郎。後に鉄蔵と称した。生没年は1760〜1849年。小さい頃から頭が良く、手先の器用な子で、初め貸本屋の小僧になり、14、15歳の時、版木彫りの徒弟に住み込んだが、そんな閲歴が絵や文章に親しむきっかけとなったと思われる。北斎は1778年、浮世絵師、勝川春章の門下となる。狩野派や唐絵、西洋画などあらゆる画法を学び、名所絵(浮世絵風景画)を多く手掛けた。しかし、1779年、勝川派を破門されている。ただ、貧乏生活と闘いながら一心不乱に画業の修練に励んだお陰で、寛政の初年ごろから山東京伝滝沢馬琴らの作品に挿絵を依頼されるようになった。
 北斎を語るとき忘れてはならないのが、改号と転居(引越し)の多さである。彼は頻繁に改号し、その回数は生涯で30回に上った。「勝川春朗」「勝春朗」「郡馬亭」「魚仏」「菱川宗理」「辰斎」「辰政」「雷震」「雷斗」「戴斗」「錦袋舎」「画狂人」「画狂老人」「卍老人」「白山人」など数え上げたらきりがない。現在広く知られている「北斎」は当初名乗っていた「北斎辰政」の略称。転居の多さもまた有名で、生涯で93回に上った。1日に3回引っ越したこともあるという。これは北斎自身と、離縁して父・北斎のもとにあった出戻り娘のお栄(葛飾応為=かつしか・おうい)が、絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに、掃除するのが面倒くさい、借金取りの目をくらます、家賃を踏み倒すなどのため引っ越していたからだ。改号もカネに困り、画号を門弟に売りつけた結果、いやでも変えざるを得なかったわけだ。
 カネ欲しさに大事な画号を門弟連中に押し売りしたりすれば、後世、拙作、真作が混在し、巨匠北斎の栄誉にマイナスに働きはしないかなどと考えるのは、彼の画業を芸術視している現代人の考え方だ。アカデミックな立場にある公儀御用絵師はともかく、浮世絵描きの町絵師など、世間も芸術家とは見ていなかった。先生、師匠と呼びはしても読み捨ての黄表紙同様、浮世絵も消耗品の一種と見ていた。だから、北斎自身もごくリアルに、当面のカネの算段が最優先だったわけであろう。「富嶽三十六景」のような代表傑作を生み出した原動力も、例えば新人の安藤広重が彗星の如く現われて、センチメンタルなあの独特の抒情で、めきめき評判を高めだしたのに刺激され、若い広重に負けてたまるか−という敵がい心、競争意識をバックボーンに、猛烈にハッスルした結果のようだ。(参考資料)杉本苑子風狂の絵師 北斎」、梅原猛「百人一語」

北斎チェック
1. 北斎は 1999年アメリカの雑誌(ライフ)に「この1000年でもっとも偉大な業績を残した100人」に選ばれました
2. 絵師北斎は当初誰に入門しましたか。・・・勝川春章
3. 「凱風快晴」(冨嶽三十六景)は赤富士、通称 黒富士といわれる作品もあり、「 山下白雨」である。
4. 北斎は何を信仰していましたか。・・・・柳嶋の妙見さま
 *「柳嶋の妙見さま」と慕われる柳嶋妙見山法性寺(現在東京都墨田区業平5丁目にある)は、500年以上の歴史を持つ、日蓮宗の寺院である。足利幕府の明応元年(1492年)、法性房日(ほっしょうぼうにっせん)上人によって開山され、久遠実成本師釈迦牟尼佛(大曼荼羅)をご本尊に祀っている。葛飾北斎が信仰していた寺としても有名で、北斎は法性寺にある「妙見堂」を題材とした「柳嶋妙見堂」「妙見宮」等の作品を数多く残している。歌川広重・豊国・中村仲蔵市川左団次・六代目菊五郎・六世桂文治など多くの名優や画伯などが吉運を願ったとも伝えられている。